2020年4月2日木曜日

3月24日に帰国しました

3月24日にワガドゥグから単独で帰国しました。

ワガドゥグ出発の日に~ベランダのバオバブ長女とシトロネール 2020.3.22.


3月2週目の終わり頃でしたか、ワガドゥグでフランス帰りの牧師夫婦が新型コロナウィルスを発症したというニュースが流れました。病院に隔離、治療が始まり、まもなく快方に向かったということでその話は終了。ブルキナファソで初めての発症者でした。

そうこうするうちに、EUの人が、どこそこの大使が、この国の大臣が・・・。
皆さん、外国人だったり、政府要人だったりの情報ばかりで、庶民の発症の様子は伝わってきません。
我が家のコックさんに訊くと、隣人がブルキナべの医師なのだけど、コロナウィルスは怖くない、手洗いさえしていればいいのだ。この国は暑いから菌は弱くなる。
落ち着いた様子です。
ブルキナファソ政府の対応は早く、学校は休校になり、スーパーなどの入り口にはアルコールジェル消毒液が置かれ、夜7時から朝5時までは外出禁止という措置が取られました。
それでも、急速に新型コロナウィルスの拡散は深刻化していきました。
夫は、わたしにはむやみやたらに買い物に行かないように、コックさんには手洗いを徹底させ、アルコールジェルで除菌、また、マスクをするようにと指示しました。一日マスクをした後、勤務終了後は漂白剤に浸けて帰るようにしてもらいました。

3週目に入り状況はますます深刻化してきているのが分かりました。
あちこちで発症者が出て、発症者と同席した人は2週間の自宅待機をする人も増えてきました。
JICA職員の家族は至急帰国の途に着き、邦人の間もざわつきました。といっても、家族で来ている日本人たちはほんの数家族ですが。
衛生事情も悪く、土埃が舞い散ってくしゃみ連発当然という乾季真っただ中のこの国で新型コロナウィルスが入り込めば、国中で蔓延すること必須だと思われます。

ブルキナべは、乾季になるとマスクは防寒と土埃で喉を守るためにするものという考えが一般的で、日本とは見かけも違う黒系のマスクを着けている人を見かけますが、徐々に白いマスクが目立つようになり、店にはマスクとアルコール除菌ジェルが消えていきました。
マスクの闇価格は7,8倍にもなりました。
そのうち、国境封鎖で食品、日用品も不足するのではないかという情報も入ってきて、日本大使館では、自宅待機に必要な水と食料の確保をという注意喚起メイルが入ってきました。

夫は工事を中断して帰国するわけにはいかないし、わたしは、まだその時点では夫とワガドゥグに残るつもりでした。
が、3週目の末にブルキナファソ政府が国境を閉鎖するという噂が経ちました。
そして、22日のエアフランスの航空券をどうにか入手したのです。

友人が20日の夜便でワガドゥグを発った数時間後の21日午前0時にブルキナファソの国境が閉鎖されたというメイルを受信。
その時点で、出国の手段は断たれたのでしたが、飛行機は飛んだのです。

空港に指定された時間に行ってから12時間近く遅れて、22日の日付が変わった23日午前1時過ぎに特別便はワガドゥグの空港から飛んだのです。
飛んできた機体には大きく”JOON”と書かれていました。機体の下のほうには小さくAir Franceの文字が見えました。
息子情報によると、もともと格安航空会社で今はエアフランスの傘下に入っているとのこと。
そんなこんなで乗り込んだ機内でもCAはゴム手袋したり気遣いは大変なものでした。
わたしが載ったプレミアムエコ(とは名ばかりの)席はいくつか空席はあったものの、おそらくエコ席は満席だったでしょう。
わたしの隣の方は、オランダの方。水のプロジェクトで長くワガドゥグを行き来しているというおじさんは、4月まで滞在予定だったけど、早く切り上げて帰国を決めたと話していました。おじさんはマスクをしていませんでしたが、乗客のほとんどはマスク着用でした。
(降りるときにビジネスクラスを通ったら、エアフランスのフランス人職員と思われる人たちが制服を着て乗っていました。やっぱり。アクラやブルキナファソに残るエアフランス職員を本国に戻すために飛ばした便だと聞いたのは本当なのだと思いました。)

パリのCDG空港では飲み物とパンの売店しか開いていませんでした。
ひっそり静まり返って、まるで眠った空港でした。
ワガドゥグの空港で11時間待ったこともあり、疲れ果てて、ゲート入り口に職員が現れたときにビジネス席に変更したいと申し出たら、今の時期、ガラガラですので大丈夫ですよ、と約4万円を追加してフラットになるビジネス席で東京に戻ることができたのはラッキーでした。

同じ便に、ベナンから引き揚げてきた10名ほどの青年海外協力隊員も乗っていました。
志半ばで帰国することになってさぞ無念だろうと思いましたが、隊員の方たちは気持ちをすでに入れ替えているようにも見えました。

24日に成田空港に到着した時の検疫官のところでは問診票の「いいえ」のところに全部、丸をつけていたし、さっと難なく通過できました。
ただ、帰国客に空港から自宅までの交通手段を確認され、公共交通機関は使えません、と係官はひとりひとりに念を押していました。

あれから、もう1週間以上が過ぎました。
わたしの帰国に合わせたかのように、東京での発症者が急増しています。
わたしは帰国した次の日から2週間の自宅待機を守っています。
息子から2回の食糧、日用品と本の差し入れがあり、友人たちからも嬉しい差し入れが届きました。

ブルキナファソでは、他のアフリカの国々と同じように新型コロナウィルスの発症者が増えていて、わたしの出国より先にアメリカ政府の特別機がブルキナファソに残るアメリカ人を運んでいったと聞きます。
明日には、カナダの特別機がワガドゥグに来てカナダ人を優先に救出すると聞いています。

ブルキナファソの国に外国人たちがいなくなると、現地の人たちの収入源が断たれるのは目に見えています。
病気になっても治療は受けられない、薬も買えない。
国境が封鎖されたのだから、これから食糧物資も不足するでしょう。

わたしたち外国人には、医療水準にも恵まれて、平和な祖国が帰っておいでと言ってくれます。
でも、アフリカの人たちには、自分たちが暮らすそこが祖国なのです。
医療水準が脆弱でも、テロの脅威が存在し、マラリアや結核などの感染症もある衛生面で問題山積みの環境でも、そこにしかかれらが生きる場所はないのです。
ごめんね、元気でね、新型コロナウィルス騒動が落ち着いたら必ず帰ってくるからね。

ブルキナべの友人、我が家で働いてくれる使用人たちにあたふたとあいさつをして、ワガドゥグの空港を発ったのでした。