2020年11月30日月曜日

サンカラさんから受け継がれたブルキナファソの国布

 


”これは、国旗と並ぶくらいに国民から大切にされる、ブルキナファソの国の布なのです。”


ブルキナファソの誰もが口にする、”わたしたちの大切な国布”。
国際会議や儀式、祭りのときに必ず国旗とともに使われる布地だと言われます。

布地に使われる赤、白、黒の3色はブルキナファソの山地を水源とする赤ボルタ川、白ボルタ川、黒ボルタ川とよばれている3本の支流の色に由来していると聞きました。ガーナ国に入ると3本の川は1本に合流していますが、昔から陸路に代わる重要な交通網だった3本の河川に与えられた三つの色なのだそうです。
日本でも、国道3号線、とか7号線、とかで呼ばれるようなものかな。
フランスの植民地だった時に名付けられた便宜上の色分けだった、と聞くとちょっと寂しい気もします。
サンカラさんがこの国の大統領になった翌年1984年8月に、「オートボルタ」(1960年のフランスより独立した時の国名”Haute-Volta"、ボルタ川の上流の意)という意味の薄っぺらな国名を、「ブルキナファソ」("Burkina Faso",現地の言葉で”高潔な人々の国”という意味だそうです)という国名に変更したと聞きます。
国旗も、ボルタ川3支流の(上から)黒・白・赤の横3本線から、上が赤(社会主義を象徴)、下が緑(農業を象徴)、真ん中に黄色の星(革命を導く)を置いた国旗に変えたのでした。


国布の柄は、町なかで売られるティッシュ・ペーパーの外箱にも使われてよく目にします。



赤、白、黒の四角い模様の中に描かれた白鳩は口に手紙のようなものをくわえています。
平和へのメッセージをくわえてブルキナファソ国民に知らせているのだ、と聞きました。









わたしたちの国の布は、こんなふうに国際会議や儀式のときに使われて、国旗と同じくらい大切に思われているのだよ、と我が家の物知り運転手さんが送ってくれた画像です。

2020年11月1日日曜日

サンカラさんの命日は10月15日

 今回も、東京からの更新です。

10月15日は、現在もブルキナファソで絶大な人気を誇るトマス・サンカラの命日でした。
Thomas Sankara、サンカラさんは1983年8月4日にオートボルタ(現ブルキナファソ)の第5代大統領に33歳で就任し、1987年10月15日に、側近のコンパオレが企てたクーデターによって首都のワガドゥグで暗殺されています。
わずか4年2か月の短すぎる大統領在任期間でしたが、サンカラさんは、貧困と腐敗の一掃、教育と社会保障制度の改善、砂漠の緑化事業などを主な政策として、先進国からの援助に頼りすぎることを警戒して発展途上国から脱却するために多方面からの改革を推し進めて、”アフリカのチェ・ゲバラ”と呼ばれ、多くの国民の支持を獲得したと聞きます。
亡くなって33年経つ今もサンカラさんの人気は衰えることなく、かれの顔が描かれたグッズが多く町なかで売られています。

ワガドゥグ市内のバス停でトマス・サンカラのTシャツを着た男性(ネットサイトより)

昨年の10月15日、わたしはワガドゥグのCLIFという国際女性グループの企画で”日常生活のための市内見物”に参加していました。その企画者の一人は南アフリカ共和国出身の陽気な女性でした。かのじょは、サンカラさんのTシャツとかれの象徴であるえんじ色のベレー帽を身に着けて集合場所に現れたのです。
「今日は、われらがトマス・サンカラの命日です。南アフリカ共和国の元大統領ネルソン・マンデラとともにわたしたちにとって偉大なサンカラです。」
かのじょの一言は、サンカラさんはアフリカの人たちにとって尊敬される革命者のひとりだったのだと痛感したのでした。
確かに、サンカラさんの命日のその日、ワガドゥグの町なかでサンカラさん関連のグッズを身に着けた人々を多く見かけました。
サンカラさんは、国名を「高潔な人々の国」という意味の現地語を使って”Burkina Faso~ブルキナ・ファソ"に、そして国旗も独自のデザインに変えて、国民に自立心、自尊心を植え付けようとしたように思います。
それまでは、国名は"Haute-Volta~オートボルタ”でした。
「ボルタ川の上流」と言う地形上から名付けただけの、愛国心のかけらも感じられない国名を持たされ、また、ガーナ国境を出てボルタ川の上流で三つの支流(黒ボルタ川、白ボルタ川、赤ボルタ川という交通網としての便宜上の指標名とか)に分かれていて、その川の3色を横にしたものを国旗としていたのです。
新しいブルキナファソとしての国旗は、汎アフリカ色で構成されていて、赤と緑の旗地の中央に黄色の星がデザインされています。
赤は社会主義、緑は農業の象徴であり、星は革命を表しているのだそうです。

我が家のコックのセイドゥおじさんは、サンカラ氏が生きていたら、この国はしっかりした指導者の元で発展していただろうに、コンパオレの奴がサンカラ氏を暗殺して政権を握ってこの国をめちゃくちゃにしたのだ、とサンカラ氏のわずか4年ちょっとの大統領としての改革時代を懐かしがって悔やんでいたのを思い出します。

そんな大人気サンカラさんのカリスマ性を作った要素はほかにもあるようです。
新生ブルキナファソの国歌、「ある一夜」を作詞したのはサンカラさんです!
ギタリストとしての才能、スポーツマンとしてのカッコイイ姿、オートバイに対する深い造詣があることでも知られていたと聞きます。ブルキナファソは、馬を愛する国民性。そして、町じゅうにあふれるオートバイを理路整然と走る人々の姿は、もしかしたら、かれらの愛するイエネンガ姫からサンカラさんへと引き継がれた精神なのかもなあ、と私は思うのです。
サンカラさんは、民主主義を掲げつつも実際には権力の集中と軍部依存が進み、革命体制の組織化には失敗したとみられていますが、国連総会のために訪れたニューヨークのハーレム地区で演説するなど、かれの雄々しい行動は、民衆の心に熱く焼き付けられたのでしょう。

本当は、サンカラさんの命日10月15日に、このブログをアップしたかったのに、あれよあれよという間に11月になってしまいました。
わたしがコロナ騒ぎで帰国してなんと7か月が過ぎました。
夫がワガドゥグに戻ってもうすぐ1か月が経ちます。
わたしひとり日本で留守番ですが、夫が再びブルキナファソの友人たちと繋げてくれました。

2020年9月26日土曜日

東京バオバブを室内に入れました!

 今日も東京からの更新です。


「暑さ寒さも彼岸まで」の通り、東京は厳しい残暑も彼岸を過ぎた途端に急に肌寒くなりました。
今週はずっと雨模様だった東京の気温は、9月26日17時現在、21℃です。
最低気温が25℃を下回りましたから、東京の我が家のベランダ育ちのバオバブを今日、室内に移しました。




背丈33㎝。幹も少しずつ木らしく茶色に変化しつつある、かな。
3個植えたバオバブの種は、結局、一つの種からしか発芽しなかったけど、6月17日に種を蒔いて、7月4日に発芽して、3か月半でここまで大きく成長しました。
日本では、これから気温が日々下がっていきますが、東京バオバブがうまく越冬できるか、共に頑張りましょう。

ジブリ映画「となりのトトロ」でわたしの大好きな場面があります。
さつきとめいが、森で拾ったドングリの実を畑に植えたら、満月の夜に発芽して、一晩でドングリの若木がぐーん!、と成長していく場面です。



さつき、めいの姉妹の、そして木の持つ大きな生命力が感じられて、好きだなあ、この場面。
ぐんぐん、ぐんぐん!
ぐんぐん、ぐんぐん!
我が家の東京バオバブも元気に大きくなれー!!!

2020年8月24日月曜日

ブルキナファソ産の健康茶

 5か月前の今日、わたしはワガドゥグから一人、成田に到着しました。
あの時は、まだうすら寒かったのにな。わたしが帰国した途端に東京都のコロナ新規患者数が急増して緊急事態宣言が発表されて、ほとんど外出することのないまま、春が来て、梅雨になって日本中のあちこちで浸水被害が起こって、長い梅雨がやっと終わったかと思ったら猛暑がやってきました。
今度は、コロナ禍対策のためのマスク着用と、熱中症とのせめぎ合いでした。
新規コロナ患者数とともに発表される熱中症患者数の多さにはうんざりしました。

8月も下旬となり、日陰ではいくぶんひんやりとした空気に変わったかな。

今日も、東京から更新します。

帰国してからも、ワガドゥグから持ち帰ってきた各種のお茶とシアバターで癒されました。
夜寝る前に顔や首、手足にシアバターを塗りながらのマッサージで心身がほぐされたようでした。
毎朝煮だして作るブルキナファソ産のお茶は健康にも良いと言われて、体の内側から洗われるようでした。
キンシャサでは、乾燥の健康茶葉(ブルグツゥと言っていました。)は庶民の市場でのみ入手できるということで、家政婦のおばちゃんに買ってきてもらっていましたが、ワガドゥグでは、きれいに包装されてスーパーで売られていました。ティーパックになっているものもあって、成分を選べて楽しめました。

先日から煎じて飲んでいるお茶が、これまたおいしい!!!
Moringa+Kinkeriba(モリンガとケンケリバ)と書かれた茶葉です。確かに2種類の茶葉が入っています。飲んでスーッと感じるのは、ケンケリバからの成分です。モリンガとの調合具合が絶妙です。


パッケージには100%ナチュラル、と記され、防腐剤、添加物、化学物質、興奮剤無添加と表示されています。
煎じたお茶には、消化機能を助けたり、血の巡りを良くしたり、体内の毒素を取り除いたり、心臓血管の疾患の予防になる、と書かれています。
沸騰した湯1/4ℓに茶さじ2,3杯の茶葉を入れて、7~10分煎じ、茶こしで濾してから、砂糖、蜂蜜で、または何も入れないで飲むこと。
朝食の時、食後、そして就寝時に飲むことを勧める。自然そのものの”エクセレントな”味です、ですって。

ブルキナファソ産と書かれていて、パッケージにブルキナアソ国旗がはためいているのがなんだか”、わたしにはうれしいです。

そんなことが書かれて、最後に消費者相談サービスとして、電話、メイルアドレス、生産者までもが、しっかり表記されているのです。
100グラムで1250CF(日本円で300円弱)。
消費期限もしっかり明記されいます。
ビニールコーティングされたような紙パッケージは微生物によって分解されるもので作られているとも書かれていますよ。
しっかり、ごみ箱に捨てましょうマークだって掲示されています。丸ごと、地球環境に配慮されたお茶だと言えます。


すごい!パーフェクト!
あっぱれ!ブルキナファソ!


ワガドゥグには、こんなお茶、パックになったお茶がきれいな包装でお店に並んでいます。
自然食品だけを取り扱うお店も、今年に入ってワガ2000地区に開店しています。
やっぱり、ブルキナファソの人たちはすごい。


なのに、テロ集団が、北の国境、南の国境から入り込み、コロナウィルスの脅威ともダブルで闘わなければならないブルキナファソ。
がんばれー!
わたしは必ずワガドゥグに戻ります。


モリンガとケンケリバミックス茶葉


そのパッケージ裏の能書き





煎じて出来上がったモリンガ・ケンケリバ茶

2020年8月8日土曜日

赤羽育ちのバオバブと、ワガドゥグ育ちのバオバブと

 2020年7月3日、東京は赤羽ベランダ生まれのバオバブです。
6月17日に種を蒔いて、2週間かかってやっと一つだけ発芽しました。
ということで、今のところ一人っ子です。
今日8月8日撮影。身長20cmになりました。双葉がどういうわけか、しっかり残っています。
幹の部分は今のところ、緑色。
見かけは、まだ”草”っぽいです。


 

 変わって、こちらは、2019年11月16日ブルキナファソの首都ワガドゥグ生まれのバオバブ長女です。兄弟姉妹が確かあと5人。
昨日、夫のプロジェクトの秘書のお姉さんが写真に撮って送ってくれました。


先月、より大きな鉢に植え替えてもらってぐんぐん育ち、幹は茶色になって、すっかり”木”の様相です。
それでも、これがバオバブの若木だとは、誰も気づかないでしょう。

どちらのバオバブももっと大きくなって、大地に根を下ろして、百年も二百年も生きるバオバブの大木に育つのを、わたしは夢見ています。

ワガドゥグ育ちと、東京育ちだけど、あなたたちは、ブルキナファソの大きなバオバブの木に生った”Pain de singe”、おサルのパン~と現地の人たちからそう呼ばれるひとつの同じ実から生まれたきょうだいなのですよ。

大きく、大きく育ちますように。

2020年8月4日火曜日

身近なところにイエネンガ姫像!

梅雨がやっと開けた東京の空の下から書きます。

ブルキナファソに伝わるイエネンガ姫の物語は、ブルキナファソやガーナの北のほうの出身であればだれもが知っているはずです。
イエネンガは、ブルキナファソの最大部族・モシ族の初代王であるウェドラオゴの実の母親であり、若い頃は弓槍使いの名人で馬にまたがり果敢に父親を助けて祖国のために戦った美しい姫だったのです。

わたしが持っているガーナの出版社から出たイエネンガ姫の絵本の表紙には、イエネンガが愛馬にまたがって雄々しく戦う姿が描かれています。






イエネンガ姫は、女だてらに馬に乗って弓、槍を自由に操り、父親の片腕として、林立する王国と戦って自国の勢力を伸ばしていったと言われています。
細くて美しい姫だったと言われて、今も、ブルキナファソやガーナ北部で尊敬され続けています。

ワガドゥグ市内の中心地に建つイエネンガ像は、ちょっとデッサンが狂っていていただけません。イメージが下がってしまいますので、代わりにわたしがイメージするイエネンガ姫のイラストを見つけましたのでこれを。





イエネンガは、ちょうど日本の戦国時代と同じ時期に生きた女性だったと思われます。15世紀のころだったのでしょうか。ブルキナファソの学校の歴史の教科書にも載っています。
フランスのジャンヌ・ダルクも15世紀の戦う女性でした。
わたしは、まさにイエネンガはジャンヌ・ダルクのようなイメージでとらえているのかもしれません。

ブルキナファソのナショナルサッカーチームの名前は、”Les Etalons”(エタロン)。
これは、もともと、フランス語で「種牡馬」という意味ですが、勇敢なイエネンガの愛馬から命名されたものだと聞きます。

また、1969年からブルキナファソの首都のワガドゥグで2年に一度、開催される映画祭、”FESPACO”でグランプリを獲得した監督に与えられるトロフィーは、馬にまたがって雄々しく戦う、ゴールドのイエネンガ姫像なのだそうです。




これがフェスパコ映画祭グランプリ賞のゴールドトロフィーです。雄々しいイエネンガ像ですね。

こんな愛馬にまたがるイエネンガ姫の像が欲しくて、日本の我が家にも違和感なく収まる小振りのものを探し回りました。




ワガドゥグのグランマルシェの一角に真鍮の像ばかりを売る店が立ち並ぶコーナーがあると聞き、我が家の運転手についてきてもらって2019年9月に購入して、ずっとワガドゥグの我が家のリビングに飾っていました。

そのアパートも今年5月末で引き上げることになり、夫のプロジェクトの現地スタッフがわたしたちが残してきた荷物をまとめて事務所へ運び入れてくれたので、きっとその荷物の中にこのイエネンガ像はあるはずです。
いつか日本の我が家に持って帰りたい大切な思い出のイエネンガ像です。

わたしが愛してやまないイエネンガ姫。
ワガドゥグから戻ってきて、わたしたちの住む赤羽の住宅地の公園の中にイエネンガ姫が愛馬にまたがる像とそっくりのものを見つけたのです。それは大きな青銅の像でした。
後日、夫を連れて観に行き、二人で感動したのでした。



この像が建立された来歴も作者名も公園内に記されていません。
なぜ、赤羽の公園に愛馬にまたがる女性像が建っているのでしょう。
なぜ女性だと決めつけるのか、って? 
この像、裸体で馬にまたがり、胸が膨らんでいるのです。

わたしはこの公園のそばを通るたびにイエネンガ姫像を見上げて、コロナ禍がおさまって、いつかワガドゥグに帰れますように、と祈るのでした。

2020年7月16日木曜日

東京で買ったブルキナファソからの丸型かご

東京からです。 
まだまだ、ブルキナファソへは戻れません。
東京でも再びコロナ患者が増えていて心も暗くなります。

そんな梅雨の東京でブルキナファソからのかごやアフリカンプリントの服(縫製は日本)を扱う"biga"というブランドの展示会が開催されることを知り、銀座までこっそり行ってきました。
目的は、ブルキナファソの空気を吸いたかったこと。そして、できたら、ブルキナファソの丸型のかごを見つけたかったのです。

そして、イメージ通りのかごを見つけて買ってきました。



それが、これ!
取っ手は、牛革だか羊皮が巻かれ、かごの下のほうは、インディゴ(藍染め)の裂き布を編み込んでいます。はるばる、ワガドゥグから運ばれてきました。
運ぶときは丸い底を内側に凹ませるのだそうです。そうしないとかさばりますからね。
そして、到着したら再度、凹みを膨らませて霧吹きを掛けながら形成するのだそうです。
こういう藍染の裂き布を編み込んだかごにワガドゥグでは出会えませんでしたので,ひとめぼれしました。

3月末にワガドゥグを出るときは5月末にまた戻る予定だったから、愛用のかごもすべてワガドゥグに置いたままにしてきました。




以前にもアップした写真ですが、もう一度。
久しぶりにみたら懐かしいなあ。
大、中、小のかごは、外出の時の持ち物に合わせて選んで持って出かけました。
外出の時は、こんな船形のものを使いました。

かごを選ぶときは、コンパオレさんという恰幅の良いムッシュの経営するかごと藍染布のパーニュの店に行きました。
町の中央を走るタンソバ道路を横に入ったところにある倉庫のような店には掘り出し物が山積みでした。
上の写真のソファ背もたれに掛けている藍染布も、コンパオレさんのところの倉庫の山積みされたものの中から選んだものです。腰に巻くと巻きスカートとしてぴったりのサイズです。

いつか丸型の良い感じのかごを見つけたいと思っていましたから、やったー!、です。

もちろん、色鮮やかなかわいい感じのかごも見つかります。そのかごには、取っ手に赤い革が巻かれたりしています。

bigaは、日本中で展示会を開催しているようです。
"ブルキナファソ・biga"で探してみてください。
ブルキナファソは、こういった工芸品の宝庫です。
                  

2020年7月5日日曜日

東京のベランダのバオバブ双葉

東京からです。
ようやくゆとりが出てきた6月17日に、我が家のベランダの植木鉢にバオバブの種を3つ蒔きました。
毎日、がんばれがんばれと声をかけ続けていたら、2日前に土から緑のようなものが見えてきて、昨日、ちょっとヨレ~っとした芽が出て、今朝はシャキーっとした双葉に対面できました。





あっぱれ! 
ワガドゥグで初めてバオバブが発芽したことを思い出します。
あたりまえだけど、ワガドゥグのバオバブも、日本で生まれたバオバブも同じでした。

3つ蒔いた種のうち、発芽はまだ1つだけど、やっぱりうれしいな。
がんばれがんばれと声援は続きます。

今日は、東京都知事選の選挙の日です。
我が家には選挙用紙は届きませんでした。
とりあえず住民票を日本に移すかと思い立って役所に行ったのが4月半ばでしたから、3か月経たないと選挙の資格は持てないと聞きます。。      
世界中に広まるコロナ禍の中にあって、適切な判断で東京都のかじ取りをしてくれるリーダーが選ばれますように。

2020年6月30日火曜日

帰国してから3か月が過ぎました

 帰国してから早くも3か月が過ぎました。
アフリカへ入る通常運行の商用便はいまだ欠航の状態です。

ワガドゥグの暮らしがどんどんわたしから遠のいていく。
わたしの心境かな。


わたしが昨年10月にプランターに撒いたバオバブの種たち。
初めて発芽したのが2019年11月16日でした。
プランターの右にちびっこい緑が見えるでしょう。
11月16日はわたしの娘と同じ誕生日だから、「バオバブ長女」と呼ぶことになりました。




その3日後にはしっかり双葉が開き、11月23日には本葉が出ました。



2020年1月13日のバオバブ長女が手前の弥生式土器のようなものに植えられています。
他のバオバブたちも次々に芽を出し育っています。



2020年3月22日、わたしがワガドゥグのアパートを最後に出るときに撮ったバオバブ長女の写真です(上)。こんなに大きくなりました。
ずっとずっと、あと2年は一緒にいられると思って疑わなかったのに、わたしはバオバブの我が子たちを残してワガドゥグをあとにしたのです。


我が子たちは元気に育っているかなあと思っていたら、我が家のアパートを引き払う時に、ベランダに並んだ最後のバオバブたちの姿ですよ、と夫の会社の女性スタッフが撮って送ってくれました。
2020年5月31日。下の写真です。


これは、バオバブ長女ですが、他のバオバブたちも大きく育っていて、写真を観たわたしはもう気分ハッピーでした。


(スタッフ女性の足が愛嬌ですか。)
しかし、バオバブ長女の成長にはびっくりです。他のバオバブより群を抜いて大きくなっているのは、弥生式土器というかブルキナファソ式土器の丸さ、土の温度の保たれ具合、土器が余分の水分を吸う加減とかが関係しているのでしょうか。
ちなみに、この土器には底に穴は開いていません。 
謎です。

このあと、アパートから引き揚げたわたしたちの荷物は(悲しいかな、電化製品や家具はすべて処分)事務所に運ばれ、バオバブたちも(わたしの願いで!)事務所の日当たりの良い通路に移されました。 

バオバブの我が子たちはどうしてるかなあ、とまたまた思っていたら、スタッフ女性が昨日、こんな写真を送ってきてくれました。
2020年6月29日のものです。


もう驚きの成長です。
スタッフ女性が、素焼きの土器はすでにバオバブ長女には小さすぎるから、大きいサイズのものに植え替えますよ、と言ってくれています。

前回のブログと写真も内容も重なってしまいましたが、バオバブの存在がわたしとブルキナファソを繋いでくれているように思えるのです。
そして、わたしがワガドゥグから離れた3か月という長さを、特に、わたしのバオバブ長女の成長具合をみて痛感するのです。
長かったなあ。
はるか遠くなった我が町、ワガドゥグだなあ。

5月末にはまたワガドゥグに戻れると思っていたのに、こんな展開になるとは思ってもいなかったことです。

まだまだコロナウィルスの猛威は世界中で吹き荒れています。
アフリカはこれからどうなるのでしょう。
ワガドゥグの仲間たちといつかきっと再会できると信じます。 
東京からでした。

2020年6月4日木曜日

わたしのバオバブの子どもたち

 2019年4月1日に入居したワガドゥグのアパートを先月末で引き上げました。
会社からの突然の命令でした。
コロナ禍でいまだワガドゥグへの商用便が飛ばない中、ワガドゥグに戻る目途がたたない。ワガドゥグに戻っても、コロナ禍のことを考えると、ホテル滞在のほうが安全でいつでも退避できる。
そういう会社の判断でアパートを引き払うことになりました。

5月初めから4週間の帰国休暇を取る予定が一ヶ月半ほど早まっただけで、ワガドゥグへ5月末に帰国する予定は変えないということから、荷物はそのままにして帰国したのでした。
3月の半ばまでは、ワガドゥグの暮らしは、テロ行為の恐怖のほうに比重がおかれるくらいにコロナウイルス騒動は全くありませんでした。
そして、半ば過ぎから瞬く間にブルキナファソの国にもコロナ禍が広がって行ったのでした。

引っ越しは、夫のプロジェクトの現地職員たちにお願いしました。
荷物はそのままにしてきたから、引っ越しは大変だったと思います。
写真を撮ってパソコンに送ってもらって、必要なもの、不要なもの、売りたいもの、そしてアパートの備品、と分けて行き、必要なものだけトランクと段ボール箱に詰めて夫の事務所に運び入れてもらいました。
わたしたち夫婦がいない中での引っ越しを逐一、報告しながら作業を進めてくれた現地の職員たちに感謝です。
本当は、ワガドゥグにいる友人たち、とてもおいしい料理を作ってくれたコックさんにも荷物の中から必要なものを選んでもらいたかったけど、そんな時間の余裕もないままの引っ越しでした。
オーダーした家具、冷凍庫などの電化製品などの大型荷物は職員たちに譲りました。
アパートのわたしたちが大切にした物たちが詰まった空間が消えてしまって、涙が溢れました。

そんな中で、わたしが事務所の秘書の女性にお願いしたことは、わたしのバオバブの子どもたちを2鉢だけでいいから事務所のベランダに運び入れて、わたしの代わりに世話をしてほしいということでした。
そして、かのじょから送られてきた写真たち。
わずか2か月でこんなに大きく育って!!! 
びっくり感動でした。

2020.5.31.”バオバブ長女”と秘書の女性~アパートのベランダにて

このバオバブの木は、2019年11月16日に初めて発芽したものです。
コックのセイドゥおじさんが買ってきたバオバブの果実の中から、種を取り出し乾燥させてプランターに10個の種を植えたのが9月半ばだったでしょうか。
発芽までに2カ月ほど、首を長くして待ち続けました。
発芽の日がわたしの長女の誕生日と同じ日付だったので、”バオバブ長女”と名付けて、格別な思いで育てました。

初顔合わせの時は、こんなかわいい発芽でした。



2019.11.16.プランターのシトロネールの右横にちょこんと発芽した!

わずか3日でバオバブの双葉がしっかりしてきました。

2019.11.19.しっかりしたバオバブの双葉

それから1週間で本葉が出てきました。

2019.11.23.本葉が出てきたバオバブ長女の様子

ある程度大きくなったところで、コックのセイドゥおじさんの助言で、植木鉢に単独で植え替えました。鉢は、実演販売で買ってきたばかりの弥生時代の土器のような土瓶が我が家に転がっていたので、それに土を入れて祈りを込めて植えました。
百年、二百年生きる神木と言われるバオバブの命の始まりでした。

あと二年半しか、バオバブべべたち(バオバブ赤ちゃんたち。次々に発芽して六つ子になっていました)の傍にいてあげられないけど、ワガドゥグを離れるときに、ブルキナファソの大地に植え替えてあげてお別れしよう、と思いながら、大きくなれ~、大きくなれ~、と言いながら、気温が少し下がった夕暮れ時に水やりをしました。

これらは、わたしが突然の帰国となった2020年3月22日のアパートを出る直前に撮った写真です。

2020.3.22.ワガドゥグ出発着前のバオバブ長女
弥生式土器の水はけ具合がよかったのか、長女は特別にぐんぐん育って行きました。
このときにはもう丈は30㎝くらいになっていたでしょうか。まだ枝分かれはしていませんでした。(写真手前には他のバオバブの子どもたちの植木鉢が並んでいます。)

それが2か月ちょっとでこんなに大きくなっていました。
同じ写真ですけど、もう一度見てください。。


2020.5.31.丈が倍以上に育ったバオバブ長女~ワガドゥグのベランダ

おまけに、引っ越し前の最後のアパートのベランダのバオバブのわたしの子どもたちの写真を載せましょう。

2020.5.31.バオバブ長女以外のバオバブの大切な子どもたち

秘書の女性は、あなたの代わりに事務所のベランダでバオバブたちの世話をして待っていますよ、とこれらの写真たちを添えてメイルが送られてきました。
ありがとうジナボさん。 
もう少ししたら必ずワガドゥグに戻って、最後はブルキナファソのサヘルの大地にわたしのバオバブの子どもたちを戻して帰ります。
百年、二百年、大地に根を張って神の木になる姿を想像します。

2020年5月28日木曜日

ビサップジュースとバオバブジュースとtamarinジュースと~東京から

東京の自宅に戻って2か月が過ぎました。
コロナ禍の落ち着かない東京から書きます。

3月半ば過ぎてから急激にワガドゥグにコロナ禍の不安が広がってきた頃、我が家のコックであるセイドゥおじさんが免疫力アップのためにと作ってくれた飲み物たちです。



向かって左から、バオバブジュース、タマランジュース、そしてビサップジュースです。

白いバオバブジュースはバオバブの実の固い殻をかち割って、中身の繊維の多い白い果実部分を煮だして作ったもの。
これだけでは酸っぱいので、セイドゥおじさんは砂糖を通常よりは(わたしたちのために)少なめに入れてよく作ってくれていました。日本のカルピスと甘酒を混ぜ合わせたような味で、わたしの大好物です。
巷の店では、”pain de singe(おサルのパン)”と言われるバオバブの白い果実部分を乾燥粉末にしたものが入手できそれを水で溶いて簡単にジュースを作れますが、セイドゥおじさんの手間暇かけた、果実から作ってくれるジュースは濃厚なまろやかな口当たりで抜群のおいしさでした。
これがバオバブの乾燥果実です。


おじさんが置いた携帯の大きさから、バオバブの果実の大きさがわかるでしょう。日本人の知人が”まるで不発弾のようだ”と言っていましたっけ。


硬いバオバブの殻をかち割ってから、繊維たっぷりの乾燥した白い果実を水を張った鍋に入れて一晩ふやかします。そしてバオバブの種を取り除いてから、果実のみを煮だします。
これは、セイドゥおじさんが果実を水に浸した後、取り出してきれいに洗ってくれたバオバブの種です。 




いちばん上の写真の真ん中のジュースは、tamarinの果実のジュースです。
この日、セイドゥおじさんは初めて作ってくれました。免疫力アップにとてもいいのだと説明しながら。


これは、セイドゥおじさんが長い鞘に入っているtamarinの果実を取り出して丸くまとめたものです。これを水で煮だして、タマランジュースを作ってくれました。このジュースにも砂糖を多く使っています。


ジュース3種の写真の一番右のものが、ビサップジュースです。
一般にはハイビスカスの花のつぼみを煮だして作ると思われていますが、ハイビスカスによく似た”ビサップ”の花の乾燥つぼみだということです。
町なかの店で、乾燥したビサップの花のつぼみがたくさん入ったビニル袋を見つけることができ簡単に入手できます。
これがビサップの花の乾燥つぼみです。


血のように赤いきれいな色のジュースにもやっぱりたくさんの砂糖を使いますが、ミントを入れたてさっぱり感のあるジュースに、あるいはセイドゥおじさんのようにジンジャーを入れて煮だして、さらに体に良いジュースに仕上げます。
よく作ってくれたなあ。
夫の事務所に勤務する秘書のジナボさんも欠かさずにミント入りジュースを自宅で作ってきて事務所の冷蔵庫にいつも入っていました。

ワガドゥグでもコロナ患者がカウントされ始め、セイドゥおじさんにも手洗いとマスク着用をお願いするようになってコロナ禍の不安が広まってきた頃、セイドゥおじさんが食卓に並べて用意してくれた3つのジュースです。

今も毎週火曜日に我が家のアパートに来て掃除管理を続けるセイドゥおじさん。
かれの優しさが表れる、美味しい料理を懐かしく思い出します。                  

2020年4月2日木曜日

3月24日に帰国しました

3月24日にワガドゥグから単独で帰国しました。

ワガドゥグ出発の日に~ベランダのバオバブ長女とシトロネール 2020.3.22.


3月2週目の終わり頃でしたか、ワガドゥグでフランス帰りの牧師夫婦が新型コロナウィルスを発症したというニュースが流れました。病院に隔離、治療が始まり、まもなく快方に向かったということでその話は終了。ブルキナファソで初めての発症者でした。

そうこうするうちに、EUの人が、どこそこの大使が、この国の大臣が・・・。
皆さん、外国人だったり、政府要人だったりの情報ばかりで、庶民の発症の様子は伝わってきません。
我が家のコックさんに訊くと、隣人がブルキナべの医師なのだけど、コロナウィルスは怖くない、手洗いさえしていればいいのだ。この国は暑いから菌は弱くなる。
落ち着いた様子です。
ブルキナファソ政府の対応は早く、学校は休校になり、スーパーなどの入り口にはアルコールジェル消毒液が置かれ、夜7時から朝5時までは外出禁止という措置が取られました。
それでも、急速に新型コロナウィルスの拡散は深刻化していきました。
夫は、わたしにはむやみやたらに買い物に行かないように、コックさんには手洗いを徹底させ、アルコールジェルで除菌、また、マスクをするようにと指示しました。一日マスクをした後、勤務終了後は漂白剤に浸けて帰るようにしてもらいました。

3週目に入り状況はますます深刻化してきているのが分かりました。
あちこちで発症者が出て、発症者と同席した人は2週間の自宅待機をする人も増えてきました。
JICA職員の家族は至急帰国の途に着き、邦人の間もざわつきました。といっても、家族で来ている日本人たちはほんの数家族ですが。
衛生事情も悪く、土埃が舞い散ってくしゃみ連発当然という乾季真っただ中のこの国で新型コロナウィルスが入り込めば、国中で蔓延すること必須だと思われます。

ブルキナべは、乾季になるとマスクは防寒と土埃で喉を守るためにするものという考えが一般的で、日本とは見かけも違う黒系のマスクを着けている人を見かけますが、徐々に白いマスクが目立つようになり、店にはマスクとアルコール除菌ジェルが消えていきました。
マスクの闇価格は7,8倍にもなりました。
そのうち、国境封鎖で食品、日用品も不足するのではないかという情報も入ってきて、日本大使館では、自宅待機に必要な水と食料の確保をという注意喚起メイルが入ってきました。

夫は工事を中断して帰国するわけにはいかないし、わたしは、まだその時点では夫とワガドゥグに残るつもりでした。
が、3週目の末にブルキナファソ政府が国境を閉鎖するという噂が経ちました。
そして、22日のエアフランスの航空券をどうにか入手したのです。

友人が20日の夜便でワガドゥグを発った数時間後の21日午前0時にブルキナファソの国境が閉鎖されたというメイルを受信。
その時点で、出国の手段は断たれたのでしたが、飛行機は飛んだのです。

空港に指定された時間に行ってから12時間近く遅れて、22日の日付が変わった23日午前1時過ぎに特別便はワガドゥグの空港から飛んだのです。
飛んできた機体には大きく”JOON”と書かれていました。機体の下のほうには小さくAir Franceの文字が見えました。
息子情報によると、もともと格安航空会社で今はエアフランスの傘下に入っているとのこと。
そんなこんなで乗り込んだ機内でもCAはゴム手袋したり気遣いは大変なものでした。
わたしが載ったプレミアムエコ(とは名ばかりの)席はいくつか空席はあったものの、おそらくエコ席は満席だったでしょう。
わたしの隣の方は、オランダの方。水のプロジェクトで長くワガドゥグを行き来しているというおじさんは、4月まで滞在予定だったけど、早く切り上げて帰国を決めたと話していました。おじさんはマスクをしていませんでしたが、乗客のほとんどはマスク着用でした。
(降りるときにビジネスクラスを通ったら、エアフランスのフランス人職員と思われる人たちが制服を着て乗っていました。やっぱり。アクラやブルキナファソに残るエアフランス職員を本国に戻すために飛ばした便だと聞いたのは本当なのだと思いました。)

パリのCDG空港では飲み物とパンの売店しか開いていませんでした。
ひっそり静まり返って、まるで眠った空港でした。
ワガドゥグの空港で11時間待ったこともあり、疲れ果てて、ゲート入り口に職員が現れたときにビジネス席に変更したいと申し出たら、今の時期、ガラガラですので大丈夫ですよ、と約4万円を追加してフラットになるビジネス席で東京に戻ることができたのはラッキーでした。

同じ便に、ベナンから引き揚げてきた10名ほどの青年海外協力隊員も乗っていました。
志半ばで帰国することになってさぞ無念だろうと思いましたが、隊員の方たちは気持ちをすでに入れ替えているようにも見えました。

24日に成田空港に到着した時の検疫官のところでは問診票の「いいえ」のところに全部、丸をつけていたし、さっと難なく通過できました。
ただ、帰国客に空港から自宅までの交通手段を確認され、公共交通機関は使えません、と係官はひとりひとりに念を押していました。

あれから、もう1週間以上が過ぎました。
わたしの帰国に合わせたかのように、東京での発症者が急増しています。
わたしは帰国した次の日から2週間の自宅待機を守っています。
息子から2回の食糧、日用品と本の差し入れがあり、友人たちからも嬉しい差し入れが届きました。

ブルキナファソでは、他のアフリカの国々と同じように新型コロナウィルスの発症者が増えていて、わたしの出国より先にアメリカ政府の特別機がブルキナファソに残るアメリカ人を運んでいったと聞きます。
明日には、カナダの特別機がワガドゥグに来てカナダ人を優先に救出すると聞いています。

ブルキナファソの国に外国人たちがいなくなると、現地の人たちの収入源が断たれるのは目に見えています。
病気になっても治療は受けられない、薬も買えない。
国境が封鎖されたのだから、これから食糧物資も不足するでしょう。

わたしたち外国人には、医療水準にも恵まれて、平和な祖国が帰っておいでと言ってくれます。
でも、アフリカの人たちには、自分たちが暮らすそこが祖国なのです。
医療水準が脆弱でも、テロの脅威が存在し、マラリアや結核などの感染症もある衛生面で問題山積みの環境でも、そこにしかかれらが生きる場所はないのです。
ごめんね、元気でね、新型コロナウィルス騒動が落ち着いたら必ず帰ってくるからね。

ブルキナべの友人、我が家で働いてくれる使用人たちにあたふたとあいさつをして、ワガドゥグの空港を発ったのでした。

2020年3月22日日曜日

21日の午前零時からブルキナファソの国境閉鎖が始まったのに?

ゴルフ場パイヨットのブーゲンビリアと1番ホール

一番暑い時季を迎えたワガドゥグ。
その3月21日になったとたんの午前0時に、ブルキナファソ大統領は国境閉鎖を発表しました。
最初に頭に浮かんだことは、わたしがやっと入手した(というか夫がエアフランス事務所まで出向いて長時間並んでくれたというのが実情です。ネット予約は閉鎖されていました。)フライトチケットも水の泡か・・・、ということでした。

3月初めの一年ぶりの帰国休暇が延期となり、やっぱり私だけ帰国したほうがいいと判断して夫が取ってくれたチケットも無駄になり、二度の肩透かしでちょっとがっかり、でもこれが私の道だ!、とか思って夫とここに残ることもまた良し、と思ったのでした。

ところが、21日昼前だったか、運転手情報でワガドゥグ空港にエアフラ機が駐機しているというのです。
夫が情報をかき集めると最終特別機が21日の夕方に出発するのだというのです。
すぐに夫のフランス人の知り合いに電話したら、そのフライトのウェイティングリストに載せてもらえるようにしてあげると言ってくれました。彼自身、家族はすでにフランスに帰したとのことで事情をよく分かってくれました。

指定された16時めがけてトランク2個を引っ提げて空港まで行くと、なんとマスクだらけの長蛇の列!白人もアフリカンも半々くらいかな。家族連れが目に付きました。中国人らしい入れ墨を施した腕をにょきっと出した若者数名のグループが目を引きました。かれらは黒色系のローカルマスクをはめていました。
不安な私に付き添って夫もカウンターのあるところまで入ってくれました。(夫はなんと肝心の自分のマスクをはめるのを忘れていて、わたしの手持ち分を渡しました。わたしにはマスクしろーとうるさいくらいに言っていたのに。)
わたしたちの前にいた女性が、アルコール消毒液を手のひらにしゅっと置いてコネコネしているのをじぃーっと見るともなく見ていたら、これ必要?っと声をかけてくれました。
彼女はフランス人でパリ経由でツールまで帰るのだそうです。
金曜日(20日)のパリ便をネット予約して、当日空港に行ったら、なんとかのじょの予約は勝手にキャンセルされていて、変更料も入れて最初に買ったチケットの3倍の価格で21日分を再度入手したものだとちょっと憤慨していました。それでも、今日の便に乗れるという安堵感を彼女に感じました。

空港職員も皆マスク姿。薄いゴム手袋をした職員もいます。
空港の土産物を売る店も、そうそうに店仕舞いを始めています。
ゲート手前の入り口で体温チェックをされ、消毒液が自動的に落ちる機械の下に手をかざすように指示されました。
結構、厳しい空気が漂っていました。
でもこれだけの人たちが飛行機に乗るために集まっている・・・。
不思議な光景でした。
国境閉鎖で空港も閉鎖されたという情報はいったいなんだったのでしょう。
21日午後4時の時点で、ワガドゥグ空港ではエアフランスとエチオピアエアのカウンターで搭乗手続きをしていました。

夫がゲート手前のカウンターの職員に事情を説明すると、ウェイティングリスト16番目に名前が入っていました。
搭乗待ちの人はここでしばらく待つようにと指示を受けてから2時間ほど待ったかな。やおらエアフラ女性職員が来て、丁重に、もしあなたが今日のフライトに乗れたとしても、乗り継ぎのパリ~東京の2便(成田、羽田)とも満席でパリで30時間の待ち時間になると言い、さらには、明日22日にもともとあなたが予約していた便に乗ると乗り継ぎもスムーズにいって問題ありません、と説明されました。
えええー!21日のこの便が最終ではないのー???
いいえ、お客様(と言ったような雰囲気で丁重に)、明日の22日の便も運航されます、ただし、出発時刻が2時間早くなりますので、こちらには明日22日の14時ですよ、午後4時ではありませんよ、午後2時ですからね。そう午後2時に再度、空港カウンターに来てください。
…耳を疑いました。
また明日お待ちしていますよ、というエアフラ職員の満面の笑顔につけ加える質問も声に出せず、すごすごとキツネにつままれた気分で帰宅したのでした。重いトランク2個半を引っ提げて。
明日運航されるのならラッキーと思おうよ、もともと空港閉鎖だと思っていたのだから、という夫の言葉で胸がスーッと落ち着いてきました。
そうだった、国境閉鎖から2週間だか3週間の間、ここで夫婦仲良く(は?)暮らすのも悪くはない。キンシャサでも1週間の自宅軟禁を2,3度、経験しているし。あの時は結構楽しかったしな。(過ぎてみると、ですが。)

今朝起きてみると、エアフランスから「お客様のフライトに関する情報」というメイルが送信されていて、文面には、3月22日のあなたの搭乗便のスケジュール変更をご連絡申し上げます・・・と始まっていました。快適なフライトを、だって。
ワガドゥグ発パリ経由で成田までのスケジュールがしっかり記載されていました。

それでもまだ半信半疑。
「国境閉鎖」、「空港閉鎖」の情報を鵜呑みにしてはいけないということ???
真実ってなんなんだろう。
自分で聴いて観て行動を起こして確かめて。そして初めて合点するべし。
今回のことで学習しました。

くたくたよれよれになった昨夜も、例の緑色のたらいで行水してぐっすり眠れました。
夫もこの4,5日間、わたしの航空チケット入手やら情報に踊らされて疲れ切っているはず。それでもいつもの日曜日のごとく今朝早く、ゴルフに出かけて行きました。わたしは、プレイしたい気持ちはやまやまだけど、これからの長旅に備えて(ってまだ確定したわけではないけど)、涙を呑んで止めました。ただ、キャディーにはいつもの金額を渡しておいてねと夫に頼んで。

ともあれ、今日の便に乗れて儲けもの、という気持ちで再チャレンジしてみます。
ワガドゥグに残す夫のことが心配ですが。
そして、外国人が出国して、不必要な外出は避けることと19時から翌朝5時までの外出禁止のお触れが出たこの町で、庶民の経済、生活は確実に厳しくなります。
農産地域のボボデュラッソとワガドゥグの道路も閉鎖されると聞きました。
この国の人たちのことも心配です。

2020年3月17日火曜日

ワガドゥグのコロナウィルス対策事情2

 今、我が家の近くにあるタイマッサージのサロンから電話を受けました。
3月27日に予約を受けていましたが、当店はコロナウィルス対策のために4月1日まで閉店の措置を取ります、というものでした。

ブルキナファソのすべての学校が休校となり、タイマッサージのサロンも休業となり、ワガドゥグの町も静まり返るのでしょうか。
日本大使館からの連絡を受けて、しばらくの飲料水、保存食糧も買い置きしました。


今朝、運転手やコックさんのローカルマスクをしたバイク通勤姿の写真を撮ろうと、待ち構えていましたが、かれらは口をそろえて、ああもうローカルマスクの季節は終わりましたよ、と言います。
もう、朝の寒い季節は終わって暑い季節になったし、ハルマッタンも終わって確かにまだ乾季で土埃は舞っているけど、一時期ほどでもなくなったので、マスクの出番はもう終わったというのです。
やっぱり、かれらにとっては、ローカルマスクは防寒と埃で喉をやられることへの防御対策だったのですね。母がよく言っていました、マスクをしていると、服を一枚重ねるのと同じくらい温かい、と。

え?、だったら、コロナウィルス防止のためのマスク装着はどうするんだろう。
ローカルマスクは全く役に立たないよ。
白い使い捨てマスクはもう売り切れて入手できないしなあ、と運転手さんとコックさんは言い合っています。
コロナウィルス対策のためにマスクをする気はさらさらないようです。

ちなみに、手元にあったローカルマスクをわたしは付けてみました。




ぴったりフィットし過ぎて暑苦しいー!
しかもガーゼが何重にも入って厚ぼったいし、ワガドゥグの猛暑の3,4,5月に着けるのは無理というもの。口周りからの熱中症を起こしそう!
納得です。

ローカルマスクは防寒と防埃用。
白の使い捨てマスクは医療用。
ワガドゥグの人たちはこう考えているのですね。




ちょっと、不安なワガドゥグの町です。

ワガドゥグのコロナウィルス対策事情

 ちょうど1週間前になるでしょうか。
ワガドゥグのテレビニュースで、フランスから帰国したブルキナべの牧師夫婦がコロナウィルスを発症したと流れたそうです。
ブルキナファソで初めての発症例ということでした。
そして同じ週にテンコドコという、首都から400kmほど離れた地方都市でひとりのヨーロッパ人が発症したと報じられました。この都市はトーゴに繋がる道で、トーゴのほうがブルキナファソより2,3日早く発症例が見られたということです。

ワガドゥグでは初めての発症者の報道のあと、瞬く間に町中のスーパーマーケットからは消毒液と白い使い捨てマスクが消えたと聞きます。
友人の話では、報道の翌日にはスーパーマーケット入り口、保育園の入り口に消毒液が置かれたと言います。
おそらく、まず敏感に反応したのはここに住む外国人だったように思います。最初の時点では庶民の住む地区では消毒液の在庫は少なくなっていたものの、夫の事務所の秘書が彼女の住む地区のスーパーから3本の消毒液を見つけてきたと言いますから。
夫が以前に50枚入りの使い捨て白マスクを5000Fで買ったものは、地元のスーパーで同じものが、ばら売りになって一枚750Fで売られていたそうです。つまり、一枚100Fだったものが750Fに。7.5倍の闇価格になったというのですから驚きです。
でも、スーパーや商店は普段と変わりなく商品が並べられて、買い物客も穏やかです。

この国で発症して、もし隔離されたなら、どんなところに放り込まれるやら。
考えただけで怖ろしくなります。一年で一番暑い季節を迎えたワガドゥグでエアコンもない、蚊帳もない、どんな感染患者と同室になるか、食事事情などもひっくるめて考えたら。自宅に籠れるものなら自宅を選びます!
そんなことできるか知らないけど。

外国人が発熱した時に行くと聞く病院では、コロナウィルスの検査キットはあるものの生体はセネガルに送られるのだそうです。そんな事情で、即日診断は難しいし、正確性も低くなるでしょう。

もともと、ハルマッタンの季節から乾季たけなわの今の季節は、黒を基調としたマスクをかけているバイク乗りが多いから、白マスクをしているという人は町なかでは見かけないように思います。でも、夫が薬局に目薬を買うために入ったら、4,5人の店員が全員、白マスクをはめていたそうです。

我が家のコックさんは、隣人がブルキナべの医師で、とにかくしっかり手洗いをしていたら大丈夫、怖い病気ではないと聞いている、それに、猛暑の中では菌は弱まるとも聞いた、と言って、ごく自然に振舞っています。
ワガドゥグにはアビジャンからボボデュラッソを通過してワガドゥグまで通じる鉄道と、ガーナやトーゴなどを結ぶ長距離バスはありますが、日常生活で使う電車やバスなどの公共交通機関はほとんどなく、多くの人たちは自家用バイクを運転しているから、その点では安心かな。

フランス人の習慣でほっぺを合わせてチュッチュッとする挨拶も、握手も消えました。代わりに、グーをして突き合せたり、肘同士を合わせての挨拶になったことも面白い現象です。

アフリカで最初にコロナウィルス患者が出たのはエジプト。西アフリカではナイジェリアでした。セネガル、カメルーン、コンゴ、トーゴと広がって行って、ついにブルキナファソにも。ギニア、コートジボワール、ガボン、ブルンジ…と広がっています。
エチオピアでは、初の発症者が日本人の出張者と言うことで話題になっていますが、わたしにはちょっと怪しい情報・・・。
アジスアベバの空港は世界でも有数のハブ空港だし、コロナウィルス発祥の地の人たちが町中にあふれていると聞いていますから。

今週から、ブルキナファソ国内の幼稚園から大学まで、すべての学校が休校となりました。(コックさんの話では、賃金カットなどで政府に不満を持つ教師たちがストライキを起こしたという見方もあるようです。)

先週末の13日(金)の時点ではブルキナファソ国内発症者は7人と発表されました。
そして、今日、週初めの16日(月)の発表では15人になっていました。

先ほど、EUは、EU圏以外の国からの入国をこの1か月間、拒否すると発表しました。
フランスのマクロン大統領も、国民に向けて日常生活に必要なこと以外での外出は禁止、また、フランスの国境閉鎖も実施すると発表しました。(3月16日20時)
世界中が変な渦に巻き込まれて行っているようで不気味です。
平静心でいたいものです。

2020年3月14日土曜日

ワガドゥグで初めての行水

 コロナウイルスが世界を震撼させる中で、3月に予定されていたわたしたちの2週間の帰国休暇が5月に延期となりました。
1年ぶりの帰国で楽しみにしていたことは、お寿司を食べることと温かい湯船に浸かることでした。
今ごろは日本だったのになあ。

その夢も露と消え・・・。
狭いシャワースペースのすぐ横にトイレ便器が接しているトイレシャワー室が2室のアパート生活で、スペースに合うバスタブを買っていいという夫の(不可能に近いような)言葉で、ワガドゥグじゅうの工具店を探し回り、やっと直径90センチの扇形バスタブを見つけました。
トイレの便器と水槽にちょこっと引っ掛かりそうだったけど、どうにかなりそうだと夫が買いに出かけたら・・・なんと、ついたてのガラス板付きでの販売しか認めないと店主が言い出しました。合わせると25万フラン。ということは日本円で約5万円です。
あと2年の滞在で、このアパートに自腹で取り付けるのはもったいないとの夫の意見で即却下されたのでした。
自宅に小さくていいからバスタブを持つという夢もこれまた露と消え・・・。

やっぱりこれしかない。
夫が買ってきたのが直径75㎝ちょっとのプラスティックのたらい!
たった6500フランぽっち。約1300円なり。
幼い頃の夏の行水を思い出します。


ごていねいにも100㎖までのメモリ付きの緑のたらい

わたしは色にこだわりました。
夫は、道路端で売っているチョコレート色のたらいならすぐに買えると言いました。
ぜったいいやだー。
そんなゴキブリ色のたらいで行水なんてぜったいいやだー!
夫は、さらに2つ、LINEメイルで写真を送ってきました。
青色と緑色のプラスティックのたらいと、昔の給食の時に使われていたやかんと同じような金だらいでした。
もう妥協するしかない。
ということでこの緑色のプラスティックたらいが我が家にやってきました。


夫から送信されてきた店頭に置かれたプラスティックたらいたち

昨夜、さっそく試してみました。
まず、わたしが2つあるシャワースペースで全身を洗って洗髪をしてもう一つのシャワースペースに移動して湯を溜めたプラスティックたらいに身を浸しました。

ゴクラク、ゴクラク。
久しぶりに、湯の柔らかいメラメラ、というかミョラミョラと言う優しい音を聞きながら、手で肩や首に湯をかけて。
足の先も温まり、体の芯まで温まり、身も心もほっこり。
足も体も体操座りのような恰好でゆったり伸ばすことはできませんでしたが、体も喜んでいるようでした。

この世で、湯船に浸かる習慣を持つ民族がどのくらいいるのでしょう。
湯船に浸かる幸福気分を知っている人はどのくらいいるのでしょう。

35年前のネパール暮らしでの最初の家では、20ℓ容量のインド製のギザ(湯沸し器)しか備わっていなかった上にその機械は熱湯になるほど沸かす機能はなかったから(もちろんバスタブなどあろうはずはない!)、わたしは午前中に洗髪して、午後に自分の体を洗うと同時に小さかった娘の全身を洗い、夕方に夫がシャワーを浴びる、という3段階分けでギザの湯を大切に大切に使っていたものです。それでも、最後には水になっていましたっけ。
あの時のことを思うと文句は言えません。

大家さーん!どうにか、あの扇形のバスタブを付けてくれ~い!
と思ったところにタイミングよく大家さんが現れたので、交渉してみましたが、ふふっと軽く一笑されただけでした。

昨夜の行水の後、わたしは気持ちよく眠ってしまい、夫がその後、湯船に浸かり、体を洗って、湯を少しずつ流して(でないと、細い排水管だから湯が溢れますから。)たらいを洗って壁に掛けたということです。
感謝、感謝のワガドゥグでの初行水でした。

2020年3月10日火曜日

祝!蝉の鳴き声が知らせてくれたワガドゥグ生活1周年

今日、2020年3月9日。
夫婦でワガドゥグに来てちょうど1年が経ちました。
3月8日に成田から数個のトランクと2個のゴルフバッグ、そして小型ハープを背負って出発してから早1年。
ワガドゥグでもいろいろな出会いがありました。
良いコックさんや運転手にも恵まれ、フランス語レッスンを興味津々で続けてこられて、ブルキナファソの口承話を聴き取る楽しみももらい、猛暑のサヘル地帯だから9ホール回るのがせいぜいだけどゴルフもできて、日本人駐在マダムや世界中のマダムたちの交わりも楽しく、還暦マダムはそれなりの体力で充実した日々を送ることができました。

途中で、フランスの娘たちが休暇で過ごす南仏に逃避旅行に出かけたり、正味滞在2日間でしたがガーナのアクラを訪ねたり、そして年末年始は娘一家と過ごすためにアルプスへ出かけたりできたのも、アフリカ滞在生活を楽しむための大切な息抜きポイントでした。

本来ならば、帰国休暇で一昨日ワガドゥグを発ち、9日の今日、東京の我が家に到着予定でしたが、世界のコロナウィルス騒動で、2か月ほど帰国休暇が延期になりました。
最初は、延期したことで相当なストレスを感じましたが、楽しみはオアズケにしておいたほうがいいと発想転換。

帰国を延期したことで、ワガドゥグゴルフ場で開催された四大陸対抗のライダーズカップに夫が出場できて日本チームが2日間の熱戦の末に優勝するという快挙の瞬間にも立ち会えて、日本大使のおそらく最後のライダーズカップ出場で勝ち取った優勝メダルとトロフィーを手に喜び合うチームの笑顔も間近に見ることができました。


ワガドゥグのゴルフ場7番ホールの木で蝉が今年も鳴いていた(2020.3.7.撮影)

わたしはライダーズカップ出場は果たせませんでしたが、先週土曜日7日朝に一人でゴルフをしていた時、7番ホールのグリーン手前の何本か立っている木々のところで蝉の鳴き声を聴くことができました。
何と懐かしい!
一年前、ワガドゥグのゴルフ場で夫と初めてのプレイの時に、セミの鳴き声を聴いた場所です。
アフリカ大陸で初めて聴く蝉の鳴き声でした。
アフリカにも蝉がいるんだと思ったとき、ここにも幸せがきっとあるのだと思えました。
蝉は南仏では、幸せを運ぶ生き物だと言われているのですから。
その通り、ワガドゥグの暮らしにもラッキーがたくさん待っていました。

夫たちのプロジェクトの終了予定は2年後です。
この2か月ほどは、ワガドゥグの日本人たちの中でも新旧の交代が多くありそうです。
寂しいお別れも、うれしい新しい出会いもあることでしょう。
ありのままで、そのままにここの時間を過ごしていきましょう。

2020年3月9日月曜日

ワガドゥグのマスク事情

雨季の時以外、ワガドゥグでもマスクをしている人をよく見かけます。
ただし、バイクに乗っている人限定ですが。
しかもその人たちは、マスクはするのに、ヘルメットは装着しない、という、「頭隠して尻隠さず」のことわざをほうふつとさせる摩訶不思議な恰好でバイクにまたがっています。
喉や鼻より脳みそのほうが大切だと思うんだけどなあ・・・。

で、白いマスクは決して(断じて)見かけません!
黒いチェック柄や、赤いギンガムチェック柄といった色物ばかりです。


上がブルキナマスクで、下が日本の使い捨てマスク

土埃舞うサヘル地帯のワガドゥグの気候に合わせたのでしょうか。
裏側の肌が当たる面は、しっかり柔らかいコットンガーゼですが、真っ黒!
もし白いマスクだったら、すぐに土埃色に変色するでしょうから、理にかなっています。
立体的でしっかりした作りのマスクが、道端のあちこちでビニル袋に個別に入ってぶらぶらと吊り下がって売られていますから、かなりの需要があるとみえます。
一枚200フランなり!(日本円で約40円)

話は逸れますが、わたしのフランス語のブルキナべの先生が2011年の東北大震災後間もない頃に成田に到着した時、空港でだれもかれもが白いマスクをしてる光景を見て、やはり日本は危険極まりないのだと思って、航空券を即刻変更してそのままブルキナファソに戻ろうかと思ったくらい恐れおののいた、と笑って話してくれました。
ブルキナファソでは、白いマスクは医療従事者だけが使うものと言う認識があるのだそうです。
というわけで、ブルキナべの彼女には、成田空港で見かけた白いマスク装着の人たちは全員、医療関係者に思えて日本は怖ろしい状態にあると感じて逃げて帰りたくなった、ということです。(実態は季節的におそらく花粉アレルギーのためだったのかな?)

12月からついこの前までのハルマッタン吹きすさぶ時期には、強風と埃避けに(早朝の寒さ避けもあったかな)。
2月末からは、ハルマッタンも収まり乾燥激しい猛暑の時期に入って、喉の乾燥防止と埃避けというふうにマスク装着の目的がちょっと変わってきたように感じます。

わたしが夫のために選んだ上の白のドット織柄のマスクは夫には小さすぎて、引き出しに眠ったままです。わたしは黒いマスクをする気は今のところ、ないし。
でも、ちょうど一年前にワガドゥグに着いたころは、家の中でも車の中でも、寝るときにも喉の乾燥防止のために日本から持ってきた白マスクは離せませんでしたっけ。

ワガドゥグで買った黒地マスクの画像を見た娘は、ファソダンファニ織りのマスクだと勘違いしました。そうやって見ると、確かにこれはオシャレです。
わたしが気に入って以前に買ったファソダンファニ織布のバッグと並べてみると・・・。





確かに!
オシャレですね。
日本でも、白マスク一辺倒にしないで、バッグや靴などとコラボして楽しむのもいいのかも!


2020年3月8日日曜日

夫も暑気あたりに倒れる

この1週間ですっかり大気の様子が変わり、年間を通していちばん暑い季節が到来した模様です。

ハルマッタン吹き荒れる”霞んだ街”も終わり・・・ではなくて、ただハルマッタンの代わりに今度は乾燥で”土埃が舞い上がっている街”になりました。霞み具合が違ってきました。

前回、わたしの暑気あたりのことを書きましたが、いつも元気な夫が今週初め、とうとう暑気あたりにやられました。

月面様ゴルフ場を容赦なく照らす正午前の太陽

バイク走行のやたらに多いワガドゥグ市内の土埃舞う道路

夫は、今週の日曜日(3月1日)にゴルフコンペに参加中に変な虫に刺されてチクン、としたと思ったらプレイの終了間際から、左足ふくらはぎ下の猛烈な痛みが始まったというのです。
そのうち頭痛もしてきた、というので毒虫にやられて毒が脳みそまで到達したか、と翌朝、病院へ行ったのでした。
血液検査もして、単なる虫刺されだろうと医師に勇気づけられて、単純明快な夫は塗り薬と鎮痛剤ですぐに痛みも治まったと言って、午後からアスファルト工事が始まった太陽の照り付ける道路工事の現場へ向かったのでした。
すると、またまた帰宅して頭痛がする、めまいまでする…と言い始め、医療従事者のかたに電話で相談すると、熱中症ではないか、とのこと。
それが2日の月曜日の夕方のことでした。
それから丸っと1日半、ポカリスェット様飲み物で水分補給しエアコンの効いた寝室で寝まくった夫は、翌々日の4日(水曜日)朝には完全復活したのでした。

わたしは、いずれの暑気あたりの時も完全快復までに1週間近くかかったというのに!

でも、これから続く猛暑のワガドゥグ暮らしで、ここの暑さ(1年を通して言えるのでしょうが)を見くびってはいけない、というスローガンをわたしたちは叩き込まれました。
ブルキナファソに長く暮らすかたの話ですが、ブルキナファソの太陽の強さは相当なものらしいです。
PHは日本の8倍もあるのだそうです。
緑のほとんどないサヘル地帯にあり、鉄分を多く含んだ赤土は、太陽熱をのみ込んでその土熱と発熱は半端ないように感じます。
太陽光発電にぴったりの国だと思われますが、今のところ、どの国も手を伸ばしてきませんねぇ。

ガーナのアクラで黄熱病研究に明け暮れた野口英世さんは、研究室の窓から強い夕陽が入り込んでいるのに気づかず、体力を消耗して、ナイジェリアへ出張した時に発病し、アクラに戻って研究仲間の介護の甲斐もなく亡くなった、という話を漏れ聞きました。
(この話の実証性は、はて?ということです。)

本格的なワガドゥグの猛暑の季節が始まりました。

2020年2月29日土曜日

ワガドゥグ3度目の暑気あたり

熱中症~という言葉は、ちょっと響きが好きではないので、わたしは「暑気あたり」という言葉を使いましょうか。


カラカラに乾いた地面に太陽が照り付けるワガドゥグのゴルフ場~2020.2.28.

ワガドゥグに初めて足を踏み入れたのが昨年(2019年)の3月9日でした。
その時にはもうすでに暑さと乾燥の季節真っ只中で、町中に舞う埃と時差ぼけが加わって私の体調はボロボロ状態。
ゴルフ場に行ってみたら、月面のような地面むき出しのだだっ広いところで、車から降りた途端にもうじりじりと暑さが頭まで上ってきて、こんな気候の中で18ホールをプレイするなんて無理!!!っと強烈に思ったものでした。

町中の干上がったような空気に埃っぽさが加わり、ワガドゥグの町の光景は衝撃的でした。
わたしは1か月以上の間、喉をやられて咳が続いて全身が筋肉痛になったものです。
強い太陽光線に弱いわたしは、サングラスは今でも欠かせません。


そんなサへル地帯気候の中で暮らし、少し朝夜のひんやりした空気を感じ始めた10月。
ちょっと油断したわたしは、ゴルフを18ホール、休憩なしに回ったのでした。
そうしたら、最後の18ホールで気を失いかけ、それでも根性でプレイを終えたとん、その場にへたり込んでしまいました。心臓の鼓動は激しく、どうにか両腕を支えられて休憩テラスへたどり着き、ふさぎ込んでしまいました。
それから1週間、ベッドにへばりくっ付いて体内にこもった熱で悶えまくりました。
これが、初めての暑気あたり。

12月のいくらか気温が下がった時季でしたが、正午近くにハーフだけ回ったゴルフ場で第二回目の暑気あたりを起こしました。
9ホール目は途中でプレイを中止しましたが、やはり、1週間、体内から熱が出て行かずに、ベッド上でごろごろ。首や肩がガチンガチンになって一回目の暑気あたりの時と同様に、タイマッサージで体中に筋肉をほぐしてもらい、五苓散末という漢方を服用して、やっと快復。

そして、2月。乾季に入って4か月目。

朝日を浴びるワガタワーがハルマッタンで霞んでいる~2020.2月中旬夫撮影

ハルマッタンが吹いて、町中が霞み、じわじわと厳しい暑さを感じる季節になりました。
ワガドゥグ在住の日本人女性の合唱仲間と打ち上げでレストランの庭のテーブルでランチをした後のこと。帰宅して、すごいほてりと頭痛に気づきました。
気が付かないうちに、わたしの席は午後の日差しが強烈に当たっていたのです。
仏語レッスンも休んでとにかく冷水を飲んで体中を冷やしてベッドへ。やはり、五苓散末の漢方薬とタイマッサージで復調するまでに1週間かかりました。

太陽高度が上がっていくともうすでに正午前の気温で40℃はあると思います。
乾燥しているから、汗をかかない。だから、暑さを実感しにくい。
そして、体温調節ができない。しかもわたしは還暦マダム!

暑気あたりを起こして何の不思議もないサヘルの気候を、ちょっと甘く見ていました。
四度目の暑気あたりを起こさないように、しっかり体調管理をしなければ。

もうじき、ワガドゥグ生活1周年です。