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2020年11月1日日曜日

サンカラさんの命日は10月15日

 今回も、東京からの更新です。

10月15日は、現在もブルキナファソで絶大な人気を誇るトマス・サンカラの命日でした。
Thomas Sankara、サンカラさんは1983年8月4日にオートボルタ(現ブルキナファソ)の第5代大統領に33歳で就任し、1987年10月15日に、側近のコンパオレが企てたクーデターによって首都のワガドゥグで暗殺されています。
わずか4年2か月の短すぎる大統領在任期間でしたが、サンカラさんは、貧困と腐敗の一掃、教育と社会保障制度の改善、砂漠の緑化事業などを主な政策として、先進国からの援助に頼りすぎることを警戒して発展途上国から脱却するために多方面からの改革を推し進めて、”アフリカのチェ・ゲバラ”と呼ばれ、多くの国民の支持を獲得したと聞きます。
亡くなって33年経つ今もサンカラさんの人気は衰えることなく、かれの顔が描かれたグッズが多く町なかで売られています。

ワガドゥグ市内のバス停でトマス・サンカラのTシャツを着た男性(ネットサイトより)

昨年の10月15日、わたしはワガドゥグのCLIFという国際女性グループの企画で”日常生活のための市内見物”に参加していました。その企画者の一人は南アフリカ共和国出身の陽気な女性でした。かのじょは、サンカラさんのTシャツとかれの象徴であるえんじ色のベレー帽を身に着けて集合場所に現れたのです。
「今日は、われらがトマス・サンカラの命日です。南アフリカ共和国の元大統領ネルソン・マンデラとともにわたしたちにとって偉大なサンカラです。」
かのじょの一言は、サンカラさんはアフリカの人たちにとって尊敬される革命者のひとりだったのだと痛感したのでした。
確かに、サンカラさんの命日のその日、ワガドゥグの町なかでサンカラさん関連のグッズを身に着けた人々を多く見かけました。
サンカラさんは、国名を「高潔な人々の国」という意味の現地語を使って”Burkina Faso~ブルキナ・ファソ"に、そして国旗も独自のデザインに変えて、国民に自立心、自尊心を植え付けようとしたように思います。
それまでは、国名は"Haute-Volta~オートボルタ”でした。
「ボルタ川の上流」と言う地形上から名付けただけの、愛国心のかけらも感じられない国名を持たされ、また、ガーナ国境を出てボルタ川の上流で三つの支流(黒ボルタ川、白ボルタ川、赤ボルタ川という交通網としての便宜上の指標名とか)に分かれていて、その川の3色を横にしたものを国旗としていたのです。
新しいブルキナファソとしての国旗は、汎アフリカ色で構成されていて、赤と緑の旗地の中央に黄色の星がデザインされています。
赤は社会主義、緑は農業の象徴であり、星は革命を表しているのだそうです。

我が家のコックのセイドゥおじさんは、サンカラ氏が生きていたら、この国はしっかりした指導者の元で発展していただろうに、コンパオレの奴がサンカラ氏を暗殺して政権を握ってこの国をめちゃくちゃにしたのだ、とサンカラ氏のわずか4年ちょっとの大統領としての改革時代を懐かしがって悔やんでいたのを思い出します。

そんな大人気サンカラさんのカリスマ性を作った要素はほかにもあるようです。
新生ブルキナファソの国歌、「ある一夜」を作詞したのはサンカラさんです!
ギタリストとしての才能、スポーツマンとしてのカッコイイ姿、オートバイに対する深い造詣があることでも知られていたと聞きます。ブルキナファソは、馬を愛する国民性。そして、町じゅうにあふれるオートバイを理路整然と走る人々の姿は、もしかしたら、かれらの愛するイエネンガ姫からサンカラさんへと引き継がれた精神なのかもなあ、と私は思うのです。
サンカラさんは、民主主義を掲げつつも実際には権力の集中と軍部依存が進み、革命体制の組織化には失敗したとみられていますが、国連総会のために訪れたニューヨークのハーレム地区で演説するなど、かれの雄々しい行動は、民衆の心に熱く焼き付けられたのでしょう。

本当は、サンカラさんの命日10月15日に、このブログをアップしたかったのに、あれよあれよという間に11月になってしまいました。
わたしがコロナ騒ぎで帰国してなんと7か月が過ぎました。
夫がワガドゥグに戻ってもうすぐ1か月が経ちます。
わたしひとり日本で留守番ですが、夫が再びブルキナファソの友人たちと繋げてくれました。

2019年9月24日火曜日

ガーナからのイエネンガ姫の絵本






"Yennenga  La Princesse de Dagomba"

「イエネンガ  ダゴンバのお姫様」

ガーナの出版社から出された、ガーナ人の作、絵の絵本をこちらで見つけました。
この絵本をワガドゥグ在住の友人からプレゼントされたのです。

そのあと、地元の人たちのグランバザールへ行き、ブロンズ像を売る店が集まる区画まで行って、こんなブロンズ像まで入手しました。
20cmちょっとの高さのイエネンガ姫像です。




絵本屋ブログにつづったイエネンガ姫の絵本についての紹介記事は、こちらです。

ブログ: L’éléphant vert
投稿: イエネンガ姫の絵本を見つける
リンク: https://lelephantvert.blogspot.com/2019/09/blog-post_23.html

2019年8月31日土曜日

「ファダ・ングルマの王、死去」の新聞記事に寄せて

イエネンガ姫をこよなく愛する私を知っている、我が家のもの知り運転手が、ファダ・ングルマ(Fada N'Gourma)の王様が亡くなったことを教えてくれました。

2019年8月19日の新聞”L'Observateur”のトップ記事には、大きな見出しとともにファダ・ングルマ(Fada N'Gourma/ブルキナファソ東部の都市)の王様の写真が一面を独占していました。


 Gulmu(Fada N'Gourma)の王様、Kupiendieli,死去

   「太陽が東に沈んだ」





 続く記事には、"たった2週間の間に、もうひとりのモシ族の王の死去に続いてファダ・ングルマの王が亡くなった"、と書き添えられていました。
そのもう一人のモシ族の王とはBoussouma(ブスマ)の王のことです。

わたしはこの記事を辞書片手に読み終えて、フランス語の先生に一語一語確認をし、夫の事務所の秘書の女性を質問攻めにし、それから、わたしは運転手と我が家のコックに根掘り葉掘り聞きまくりました。しつこく、しつこく追いかけ回して。(ごめんなさい、とそして、ありがとう、です。)


まず、確認したことは、イエネンガ姫までさかのぼって、かのじょの息子のウェドラオゴ(初代モシ族の王様)には3人の息子がいたこと、そしてその3人が父親のウェドラオゴから引き継いだ領地のことからでした。

ウェドラオゴの長男、Zoungrana は、Ouagadougou(ワガドゥグ)へ、
ウェドラオゴの次男、Raoua は、Ouahigouya(ワイグヤ:北部マリのほう)へ、
ウェドラオゴの三男、Diaba は、Fada N'Gourma(ファダ・ングルマ:東部ニジェールのほう)へと移動し、今も子孫が続いているということでした。

ウェドラオゴの三男のDiaba Lompo は、後に馬に乗ったままバオバブの木を駆け上り、天に昇って消えていったという伝説の残る王様です。ディアバ(Diaba)が馬とともに駆け上っていったというバオバブの大木は、今もファダ・ングルマに立っていて、その幹には馬の蹄の跡が残っているのだそうです。(星の王子様っぽいファンタジーの世界ですね。)


次に確認したことは、この3つの領地のモシの王様に加えて、現在、ブルキナファソの国には5つの地域にモシ族の王様が存在する、ということです。

① Ouagadougou(ワガドゥグ)の王様
② Tenkodogo(テンコドゴ)の王様
③ Ouahigouya(ワイグヤ=Yatenga)の王様
④ Fada N'Gourma(ファダ・ングルマ)の王様
⑤ Kaya(カヤ=Boussma)の王様

この5人の王様のうち、カヤ(ブスマ)の王様がこの8月初めに亡くなり、2週間後にはファダ・ングルマの王様が亡くなったというのですから、ブルキナべには悲しみの8月(涙の雨季~実際に雨量が一番多い8月です。)となったことでしょう。

私の周りのブルキナべは皆、モシ族の人たちのせいか、この2人の王様の死のことをよく知っていて、かれらがいかに尊敬を集めた偉大な存在であったかを熱心に話してくれました。彼らが言うには、モシ族の人たちだけでなく他部族の人たちも同様に悲しんでいるということです。
私の周りの人たちの話を聞いていると、この国の部族間には壁も闘争心もなくて共存して暮らしているというイメージを持ちます。我が家のコックは、この国には部族間の争いは全くなく、平和だと言い切りました。本当に穏やかな国民性を感じます。

わたしは、この”部族”というカテゴリーのくくり方がイマイチ理解できません。
ファダ・ングルマの人たちのことをGulmantie(Gourmantche:グルマンシェ)と言ってモシ族と区別し、モレ語(モシ族の言葉)ではなくてグルマンシェマ語(langue Gulmantchima)を話すのだと言います。
では、ファダ・ングルマの人たちはモシ族ではないのなら、上の”モシ族の王様5人”には入れられないのではないの?、と訊くと、ウェドラオゴさんまでさかのぼるとかれらもモシ族だ、というのでした。
ウェドラオゴさんは初代モシ国王で、かれの三男のディアバさんはファダ・ングルマの初代王なのだと言うのです。ちなみに、ウェドラオゴさんが初代モシ王国の王様だけど、母のイエネンガ姫や父のリアレさんはモシ族ではないというブルキナべもいます。ちょっと混乱します。
”部族”というくくり、概念が、この地域一帯ではちょっと日本人の私たちと違うのかなあ~。


王冠である帽子を被り、ファソダンファニの民族衣装姿の第31代ファダ・ングルマ王、クピエンディエリ


ともあれ、この死去記事の主人公のファダ・ングルマの王様、クピエンディエリ(Kupiendieli)さんは、1935年にファダ・ングルマで生まれ、ゾーゴ(Zorgho,ブルキナファソ国内)に続いてバマコ(マリ共和国)、フランスで勉強し、その後、国会議員に選出されて国会の議長や副大統領を歴任するなど輝かしい経歴を持ち、67歳で31代目のファダ・ングルマの王様となり、2019年8月16日の夜から17日に日付が変わるころ、84歳で亡くなったのだそうです。

”偉大なる賢人(クピエンディエリ王)の死の報を受けて、ブルキナ政府から賢人へのお悔やみの声が満場一致でいたるところから沸き起こった。伝統的なものを守護してきた、信念の人の思い出に別れを告げるためのメッセージであった。”

2019年8月。ブルキナファソのモシの2人の王様~ブスマ(Boussma/Kaya)王とファダ・ングルマ(Fada N'Grourma)王~の死去は、ブルキナファソの人々、ブルキナべにとって、大きな悲しみのニュースだったのでしょう。

今も連綿と続くMogo Naba(モレ語で、モシ族の王)の国、ブルキナファソ。

わたしには、かれらの中に、遠く、ウェドラオゴさんが、そしてイエネンガ姫が見えるように思うのでした。(イエネンガ姫かぶれより)

2019年6月16日日曜日

ブルキナファソ・モシ族の伝説 イエネガ姫物語

 ブルキナファソのモシ族に古くから伝わる、イエネガ姫の物語の再話です。



L’éléphant vert: ブルキナファソ モシ族の伝説~La Princesse Yenega: 馬上のイエネガ イラスト(YouTubeより) 現在のブルキナファソの部族の過半数を占めるといわれるモシ族は、モレ語を話し、今も、皇帝と呼ぶのか、首長がワガドゥグに臨座してるのだそうだ。 モシの王国を作ったと言われるウエドラオゴの話は、この国の誰もが知っ...

ワガドゥグ市内に立つイエネガ姫像

ワガドゥグ市内のイエネガ姫像


ブルキナファソの人口の60パーセントを占めると言われるモシ族の人々に古くから伝わる、イエネガ姫の物語があります。
イエネガはモシ王国の最初の王の母です。
(イエネガでもイエネンガでもどちらも言うのだそうですが、ここでは、イエネガに統一します。)
モシ王国を建国したウエドラオゴ王の母親、イエネガのたくましくも美しい女性の物語を、わたしが小さい頃夢中になって観たアニメ「リボンの騎士」の作者、手塚修虫さんはもしや知っていたのでは?、とも、「風の谷のナウシカ」を描いた宮崎駿監督もイエネガ姫を下地に物語を膨らませたのでは?、とも勝手に空想して(失礼)、わたしには日本の巨匠が描いたこの2人の主人公(サファイヤ王子とナウシカでした)が、イエネガ姫と重なってみえてしまうのでした。

イエネガ姫の物語は、はるか遠いアフリカの、小さな国が林立して戦いを繰り広げる時代の伝説です。


最初の写真の銅像は、ワガドゥグ市内に立つイエネガ姫の像です。
この像の立つ小さな一画は、庭園(JARDIN YENNENGA)になっていて、食事などができる庶民の憩いの場になっていると言うことです。

また、その庭園を囲む鉄柵には、馬にまたがるイエネガ姫の雄姿も描かれていました。


イエネガ庭園の柵に描かれた、馬上のイエネガ姫


弓と槍を持ち、馬にまたがって敵と戦うイエネガ姫の雄姿を、わたしは、勝手にりりしく美しく思い描いていたんだと改めて思いました。
(得てして、歴史上の人物は美化されやすいですからね。)

だから、この像を見た時は、正直、がっかりでした。
こんなにがっしりした姫ではなかったはず。だって、「イエネガ」と言うのは当時の部族の言葉で「細い」という意味で、実際にイエネガは細い体型でしたが、乗馬も弓、槍もとても上手に操ったと言い伝えられているのです。
どっちかと言うと、こっちのイメージかな。


戦闘姿のイエネガ姫像(真鍮製・ワガ2000のタイマッサージのサロンにて)


ワガドゥグの街中のイエネガ姫の銅像の足元には、だれが供えたのか、かごに入った花が飾られていたのには心和まされました。


今も多くのモシ族から慕われるイエネガ姫の物語は、次回、わたしの絵本屋ブログのほうからワガブログのほうに引用して、ご紹介しましょう。