2020年11月30日月曜日

サンカラさんから受け継がれたブルキナファソの国布

 


”これは、国旗と並ぶくらいに国民から大切にされる、ブルキナファソの国の布なのです。”


ブルキナファソの誰もが口にする、”わたしたちの大切な国布”。
国際会議や儀式、祭りのときに必ず国旗とともに使われる布地だと言われます。

布地に使われる赤、白、黒の3色はブルキナファソの山地を水源とする赤ボルタ川、白ボルタ川、黒ボルタ川とよばれている3本の支流の色に由来していると聞きました。ガーナ国に入ると3本の川は1本に合流していますが、昔から陸路に代わる重要な交通網だった3本の河川に与えられた三つの色なのだそうです。
日本でも、国道3号線、とか7号線、とかで呼ばれるようなものかな。
フランスの植民地だった時に名付けられた便宜上の色分けだった、と聞くとちょっと寂しい気もします。
サンカラさんがこの国の大統領になった翌年1984年8月に、「オートボルタ」(1960年のフランスより独立した時の国名”Haute-Volta"、ボルタ川の上流の意)という意味の薄っぺらな国名を、「ブルキナファソ」("Burkina Faso",現地の言葉で”高潔な人々の国”という意味だそうです)という国名に変更したと聞きます。
国旗も、ボルタ川3支流の(上から)黒・白・赤の横3本線から、上が赤(社会主義を象徴)、下が緑(農業を象徴)、真ん中に黄色の星(革命を導く)を置いた国旗に変えたのでした。


国布の柄は、町なかで売られるティッシュ・ペーパーの外箱にも使われてよく目にします。



赤、白、黒の四角い模様の中に描かれた白鳩は口に手紙のようなものをくわえています。
平和へのメッセージをくわえてブルキナファソ国民に知らせているのだ、と聞きました。









わたしたちの国の布は、こんなふうに国際会議や儀式のときに使われて、国旗と同じくらい大切に思われているのだよ、と我が家の物知り運転手さんが送ってくれた画像です。

2020年11月1日日曜日

サンカラさんの命日は10月15日

 今回も、東京からの更新です。

10月15日は、現在もブルキナファソで絶大な人気を誇るトマス・サンカラの命日でした。
Thomas Sankara、サンカラさんは1983年8月4日にオートボルタ(現ブルキナファソ)の第5代大統領に33歳で就任し、1987年10月15日に、側近のコンパオレが企てたクーデターによって首都のワガドゥグで暗殺されています。
わずか4年2か月の短すぎる大統領在任期間でしたが、サンカラさんは、貧困と腐敗の一掃、教育と社会保障制度の改善、砂漠の緑化事業などを主な政策として、先進国からの援助に頼りすぎることを警戒して発展途上国から脱却するために多方面からの改革を推し進めて、”アフリカのチェ・ゲバラ”と呼ばれ、多くの国民の支持を獲得したと聞きます。
亡くなって33年経つ今もサンカラさんの人気は衰えることなく、かれの顔が描かれたグッズが多く町なかで売られています。

ワガドゥグ市内のバス停でトマス・サンカラのTシャツを着た男性(ネットサイトより)

昨年の10月15日、わたしはワガドゥグのCLIFという国際女性グループの企画で”日常生活のための市内見物”に参加していました。その企画者の一人は南アフリカ共和国出身の陽気な女性でした。かのじょは、サンカラさんのTシャツとかれの象徴であるえんじ色のベレー帽を身に着けて集合場所に現れたのです。
「今日は、われらがトマス・サンカラの命日です。南アフリカ共和国の元大統領ネルソン・マンデラとともにわたしたちにとって偉大なサンカラです。」
かのじょの一言は、サンカラさんはアフリカの人たちにとって尊敬される革命者のひとりだったのだと痛感したのでした。
確かに、サンカラさんの命日のその日、ワガドゥグの町なかでサンカラさん関連のグッズを身に着けた人々を多く見かけました。
サンカラさんは、国名を「高潔な人々の国」という意味の現地語を使って”Burkina Faso~ブルキナ・ファソ"に、そして国旗も独自のデザインに変えて、国民に自立心、自尊心を植え付けようとしたように思います。
それまでは、国名は"Haute-Volta~オートボルタ”でした。
「ボルタ川の上流」と言う地形上から名付けただけの、愛国心のかけらも感じられない国名を持たされ、また、ガーナ国境を出てボルタ川の上流で三つの支流(黒ボルタ川、白ボルタ川、赤ボルタ川という交通網としての便宜上の指標名とか)に分かれていて、その川の3色を横にしたものを国旗としていたのです。
新しいブルキナファソとしての国旗は、汎アフリカ色で構成されていて、赤と緑の旗地の中央に黄色の星がデザインされています。
赤は社会主義、緑は農業の象徴であり、星は革命を表しているのだそうです。

我が家のコックのセイドゥおじさんは、サンカラ氏が生きていたら、この国はしっかりした指導者の元で発展していただろうに、コンパオレの奴がサンカラ氏を暗殺して政権を握ってこの国をめちゃくちゃにしたのだ、とサンカラ氏のわずか4年ちょっとの大統領としての改革時代を懐かしがって悔やんでいたのを思い出します。

そんな大人気サンカラさんのカリスマ性を作った要素はほかにもあるようです。
新生ブルキナファソの国歌、「ある一夜」を作詞したのはサンカラさんです!
ギタリストとしての才能、スポーツマンとしてのカッコイイ姿、オートバイに対する深い造詣があることでも知られていたと聞きます。ブルキナファソは、馬を愛する国民性。そして、町じゅうにあふれるオートバイを理路整然と走る人々の姿は、もしかしたら、かれらの愛するイエネンガ姫からサンカラさんへと引き継がれた精神なのかもなあ、と私は思うのです。
サンカラさんは、民主主義を掲げつつも実際には権力の集中と軍部依存が進み、革命体制の組織化には失敗したとみられていますが、国連総会のために訪れたニューヨークのハーレム地区で演説するなど、かれの雄々しい行動は、民衆の心に熱く焼き付けられたのでしょう。

本当は、サンカラさんの命日10月15日に、このブログをアップしたかったのに、あれよあれよという間に11月になってしまいました。
わたしがコロナ騒ぎで帰国してなんと7か月が過ぎました。
夫がワガドゥグに戻ってもうすぐ1か月が経ちます。
わたしひとり日本で留守番ですが、夫が再びブルキナファソの友人たちと繋げてくれました。