2021年10月27日水曜日

10月23日、第27回FESPACOワガドゥグ全アフリカ映画祭閉幕

 一昨日の土曜日(10月23日)に1週間の日程で開催されたワガドゥグ全アフリカ映画祭が閉幕しました。




ブルキナファソの有力日刊紙、”Sidwaya”の10月25日の第一面全体に、金のイエネンガ姫賞グランプリの受賞者でソマリア出身の女性監督、Khadar Ahmedさんが、トロフィーを高々と揚げて喜びにあふれた表情をとらえた写真が載りました。
イエネンガの金の愛馬賞(l'Etalon d'or de Yennenga),賞金2000万フランセーファー(約4百万円)、そして、ブルキナファソの伝統のとんがり帽子”サポネ”が、セネガル大統領とブルキナファソ大統領から授与された瞬間です。藍色の伝統衣装に身に包んだ男性がMacky Sall セネガル大統領、白い衣装の男性がKabore大統領です。


新聞第二面には、グランプリ受賞作品映画の紹介記事も見つけました。
”La Femme Du Fossoyeur"(The Gravedigger's wife/墓掘り人の妻)。
ちょっとドキッとする題です。
そして、数ページを割いて、各賞の受賞者の名前、出身国、映画題名、賞金まで掲載されていました。閉会式翌週月曜日の新聞記事はFESPACO一色だったと言えるでしょう。

わたしたちは夫婦で、16時から閉会式と各賞発表と授与式があるというので、ブルキナファソの国営放送のチャンネルに合わせて待機していましたが、実際に始まったのは、17時近くになってからでした。
会場は、ワガ2000のタワーの近くに建つ大きな国立スポーツセンターでした。

閉会式は、オートボルタ(当時の国名)第5代大統領であり、在任期間わずか4年の中で多くの改革を実行したトーマス・サンカラの大きな写真が舞台いっぱいに掲げられて、かれへのオマージュのダンスで始まりました。
暗殺された彼の命日が今月の10月15日。ちょうど1年前にドキュメンタリー映画「人間トーマス・サンカラ」(リシャール・ティエネ監督)がブルキナファソで上映され、今回のFESPACOでも披露されたということです。今年で34年経った今も国民に尊敬され続けているトーマス・サンカラ(1949~1987。在任1983.8.3.~1987.10.15.)。かれが作詞した国歌「ある一夜」がラップ風に編曲されて歌われました。
余談ですが、サンカラが暗殺されて34年経った今年10月11日にサンカラ暗殺裁判が正式に開始され、10月25日に延期されていた審理が再開されるという中でのFESPACO祭だったということも聞きました。さらに、FESPACO自体の中にサンカラ精神が息づいているともわたしは感じ取ったのでした。
続いて、たくさんの女性の写真が舞台スクリーン上に現れて(その中に2014年のノーベル平和賞を受けたパキスタンのマララ・ユスフザイさんの写真も紹介されたような・・)、男性ダンサーの片方の肩に馬乗りになった女性ダンサーたちが厳かに踊る場面に移っていきました。わたしの乏しい語学力では、どうして女性オマージュのような舞台企画になったかはよく理解できませんでしたが、とても良い舞台構成だと魅入ってしまいました。
第27回FESPACOのテーマ、「アフリカの映画、民族離散の、新しい才能の、新しい挑戦の映画」ということと関係があるのでしょうか。

そのあと、舞台は暗転。
スポットライトの中に、金の愛馬にまたがって雄々しく戦うイエネンガ姫グランプリトロフィーを掲げ持って、一歩一歩進むイエネンガ姫に扮した若い女性が浮かび上がりました。





毎年変わらない構成だということですが、きっとこんな衣装に身を包んで果敢に戦ったであろう、わたしの想像にピッタリマッチしたイエネンガ姫でした。髪飾りからシャツ、ズボンに至るまで、狩人の身を護るとされるタカラガイで飾られた衣装。
こんなにもブルキナファソの人々に愛され続け、ブルキナファソ建国の母と慕われるイエネンガ姫への、ブルキナファソ国民の尊敬の念を感じました。

そして、その後に各賞の発表がそれぞれのプレゼンテイターとともに始まったのでした。

ブルキナファソがFESPACOのイベントをいかに大切にしているか~資源の乏しい内陸国にありながら、トマス・サンカラが「ブルキナ・ファソ」=“高潔な人の国”という国名に改め(以前は”オート・ボルタ”、単なるボルタ川の上流、という位置を示すだけの名前だった)彼の精神が生き続ける国、そして、この国の文化をPRする好機会にしようとする姿勢を、わたしは初めて間近で見たFESPACO祭で感じました。

FESPACOの映画館でもらってきたパンフレットたちです。



FESPACO会期中の上映プログラムと、映画祭の案内書は無料でもらえました。
どれも、きれいに印刷されて、上映場所、日時など分かりやすいスケジュール表になっていました。

ありがとう、FESPACO。ブラボー、FESPACO。
わたしは、FESPACOはすばらしいアフリカ版カンヌ映画祭だ!、と感動しました。
次回のFESPACO開催の時は、わたしたちはもう帰国していますが、このワガドゥグ全アフリカ映画祭が末永く盛況でありますように。

それから・・、協賛国の中に、日本の名が連なってほしいなとも思いました。

2021年10月18日月曜日

第27回FESPACOワガドゥグ全アフリカ映画祭~ブルキナべたちのお祭りの楽しみかた

 


今日は、FESPACO~ワガドゥグ・アフリカ映画祭~2日目でした。
外国人のわたしたちが普通に過ごした週末は、町なかで特に大騒ぎをしている光景に出会いませんでしたが、夫の事務所の秘書の女性から、そして、ブルキナファソに長く暮らす日本人の女性から聞く一般庶民のFESPACO開催期間の楽しみかたというものがわたしの小さい頃の思い出と重なって、真相が薄らぼんやりと見えてきたように思います。

もちろん上映映画のスケジュール(上映場所、日時)は前もって新聞などで公表されると聞くし、長編映画、短編映画、アニメ映画、ドキュメンタリー映画によって入場料は異なり、当日売り出されるという入場券は1000フラン、1500フラン(日本円に換算すると約200円、300円だけど、ここではもっと高価に感じます)と聞きます。私が買った入場券は1000フランでした。どれも一般庶民にとっては購入するには少し躊躇する金額だと思われます。というのも、庶民が朝食のために町カフェでパンとコーヒーを注文して200フラン、昼食を町なかの大衆食堂で食べると水も含めて500フランでおなかいっぱい食べられるという話ですから。




せいぜい映画を鑑賞するにしても吟味して選んだ一作品、あるいはそれさえもできない庶民のほうが多いように思えます。周囲に人に訊いてみると、FESPACO開催中は庶民たちは一回は映画館に足を運ぶくらいかなということです。でも、FESPACOが終わると、映画館に行くことはないかなあと言っていました。しばらくすると、テレビで観られるからね、とも話していました。
それでも、アフリカ映画祭がワガドゥグの町で誕生して50年を超える歴史を持つ祭典だということを考えたら、そして、市内にいくつもの立派な映画館を抱えていることを考えたら、ブルキナファソ人の映画に対する思いも特別なものがあるのかもしれません。

事務所の秘書の女性は、小さいころ、映画祭開催期間中は学校が昼で終わり(普段は朝7時半から17時くらいまで授業があったのだそうです)、家族で、あるいは友人たちと映画祭会場に行くのを楽しみしていたと言うのです。
子ども向けの映画は15時から、16時からと早い時間帯に上映されていたのだそうです。
もちろん、映画を観るという楽しみもあったけれど、家族や友人たちと、映画館周辺に立ついろんな露店を見て回って、食べたり、買い物をしたり、ただ歩き回って遊ぶだけでも楽しかった、と話していました。
今も、映画祭期間中は学校が半ドンだと聞きました。

そんな話を聞いて、わたしの小さい頃のことと重なって、とても懐かしくなったのでした。 
わたしの故郷、北九州市八幡の町は、毎年11月の初めに「起業祭」というお祭りがあって、学校は(確か)土日を挟んで3日間ほど休みになりました。
小学生の頃は、そのお祭りの意味も分からず、漢字でどう書くのかも考えもしないで、キギョウサイ、きぎょうさい、とつぶやきながら胸が高鳴ったものです。
本来の意味は、八幡製鉄所の溶鉱炉の火が点火された起業の日を祝う祭り、だったのです。
その起業の祝いの一環として、鉄が作られていく大規模工場が一般に公開されて見学に行った記憶があります。そして、体育館での記念式典にも足を踏み入れたこともあります。
それはわたしにとって退屈なものでした。
そんなことよりも、工場や式典から出てきた後に、メイン会場の八幡製鉄所体育館周辺に立ち並ぶ露店を見て回って買い食いする楽しみが、わたしたち子どもにとっての(そして多分、大人たちにとっても)楽しいきぎょうさい、きぎょう祭、だったのだなあとしみじみ思い返します。起業のお祝いなのだから、家族総出でメイン会場周辺に繰り出して祝って楽しんで、というのもアリなのでしょう。小さなピンクのプラスティックのままごと道具、セルロイドのお面、ヨーヨー、綿菓子、たこ焼き。11月に入ったとたんに空がどんより曇ってあられ模様になった玄界灘に面する八幡の町に暮らすわたしたちの大きな楽しみのイベントでした。

ここの人たちも、わたしの起業祭に対するのと同じような視点~アフリカ映画作品が上映されて讃えられる映画の祭典、というより、フェスパコ祭りという視点~で、上映会場周辺に立つ露店を回って祭りを楽しむものなのかもしれません。

アフリカ映画がますます注目されるようになり、ワガドゥグというこの地で繰り広げられるであろう映画商談会のほうも盛況でありますように。

皆さんにはコロナ感染対策面もそれからテロのこともしっかり考えて行動していただけたらと思いますが、ワガドゥグでは無理なのかもな。



2021年10月17日日曜日

第27回FESPACO(ワガドゥ全アフリカ映画祭)、今日から開催





この写真は、ワガドゥグの中央を走るタンソババイパス沿道に立つ、第27回FESPACO(ワガドゥグアフリカ映画祭)の大きなポスター広告塔です。
ブルキナファソ建国の母と今も絶大な人気を持つイエネンガ姫が愛馬にまたがって戦う雄姿を描いたポスターは、アフリカ映画祭~FESPACO~の芸術的な側面を高めているように感じます。

FESPACOの正式名称は、
"le Festival panafricain du  cinema et de la television de Ouagadougou"

本来2021年2月27日から3月6日まで開催予定だった映画祭はコロナのために延期になり、今日、2021年10月16日から23日までの期間、開催されることとなり、市内の複数の映画館で出展作品が上映されるそうです。
短編から長編まで、アニメ作品も含めて1132本のフィルムの中から239の各賞が選出されて、グランプリ獲得の映画には金のイエネンガ姫戦闘の雄姿のトロフィーが授与されます。




他に監督や俳優たちへの賞もあり、銀、銅、そして木製のイエネンガ姫のトロフィーが授与されると聞きました。

1969年に1回目がワガドゥグで誕生し、以来1年おきに開催されるアフリカ映画祭。
どうしてワガドゥグで映画祭が始まったのだろうと、夫のプロジェクトで秘書をする女性に訊ねると、ブルキナファソ一帯の部族たちには長い歴史があり多くの物語が語り継がれていて、50年前のワガドゥグではそれをフィルムにするということが盛んにおこなわれていたというのです。1969年といえば、この国がオートボルタという国名で独立してから9年が経っていました。
FESPACOが始まった当初の受賞者は、監督にも俳優にもブルキナファソの人が多くいたけれど、最近ではセネガル、コートジボアール出身者が多く受賞していると、彼女はちょっと残念な表情を見せました。

この国の有力日刊紙”Sidwaya”にも、先月末辺りから2,3回、FESPACOのPR広告が大きく掲載されていました。



愛馬にまたがって戦うイエネンガ姫の姿が貼り絵モザイクのようなタッチで描かれる今回のポスター。
広告の下のほうには、FESPACO協賛企業の名前が並んでいます。

第27回FESPACOのテーマは、
” Cinema d'Afrique et de la diaspora, nouveaux talents, nouveaux defis"

日本語にしたら、"アフリカの映画、そして民族離散、新しい才能、新しい挑戦の映画”となるのでしょうか。

期間中、アフリカじゅうから映画出展関係者たちが、そして世界中からは映画の上映権獲得のために配給会社やテレビ局関係者たちが集まってくると聞きます。
また、映画は観ずとも、映画館周辺に立つ露店に集まる一般大衆もいるでしょう。

入国者に対して隔離措置を設けていない、そして、コロナワクチン接種が全く進んでいないブルキナファソに大挙して他国からの人々が入国してくることを想像すると、今夏の東京オリンピック開催後のコロナ感染拡大のことが頭をかすめます。
国家挙げての大きな祭りの浮き立つような大衆の喜びとは裏腹に、わたしは国内でのコロナ感染拡大のことが大きく危惧されるのでした。



2021年10月14日木曜日

大騒ぎの顛末~洗濯機に付けた電圧安定器から白煙吹く


 

この写真の洗濯機上に置かれた赤い箱は、電圧安定器です。トルコ製だったかな。
アフリカの国で知りうる限り、家庭内に送電されてくる電圧は220ボルトです。
日本の電圧が100ボルトというのだから、二倍以上の電圧がアフリカの一般家庭にきていることになります。
しかも、220ボルトという電圧が一定していないのです。
200ボルトを切ったり、240ボルト近くになったりするそうです。
高電圧より、低電圧のほうがモーターにはよくないとも聞きます。
そこでアフリカ生活で必要不可欠なのが、この電圧安定器です。
使用電気器具と電圧安定器はセットにして置かれます。

昨日の朝のことです。
朝目覚めて寝室から出ると、焦げ臭いにおいがします。
最初、夫が小腹を空かしてこっそりパンかウインナーかをフライパンで焦がしたのか・・・と疑いました。でも、台所は昨夜と同じ状態です。
次に点検したのが、廊下に設置している電気コントロールパネルでした。でもまったく異常ありません。
どこだろう?この焦げた臭いの発生場所は?
夫も一緒になってあちこち点検しましたが、焦げた臭いの大元はわかりません。
この臭いは、電線の焦げる臭いだと断定。
このまま二人が事務所に出てしまったら、火事になる!、という思いから必死で探しました。寝室を出たところの短い廊下部分がいちばん臭いが強いということが判明してからは、その周辺をしらみつぶしに探しました。

そして突き止めたのが、上の写真の洗濯機とセットに置いている電圧安定器の異常でした。
変圧器自体がすごい熱をもって、白煙を吹いています。
(写真でも白煙が見えます。)
記憶をたどると、この2日間ほど、停電と断水が頻繁に起こっていました。
停電の合間は、電圧が異常にぶれます。
また、断水の間は洗濯機に水が入らず、機械が空回り?するはずです。
当然、電気安定器に負荷がかかります。
この安定器が洗濯機を護ってくれたのです。
キンシャサにいるときは、大型冷蔵庫とセットに置いていた電圧安定器が異様に発熱して白煙を吹いていたことを思い出します。

ああ、よかった。火事を起こしたら大変なことになっていた!
この電圧安定器は、もちろんお払い箱にしました。
(といっても、ごみ箱から、きっと誰かが拾って持っていくのだろうな。気をつけなさいよー。)

2021年10月8日金曜日

赤ちゃんマントがひるがえる町 ~”Porte--bebe” のこと

 2019年3月にワガドゥグの町に来て、いちばんの驚きは、道路にバイクがあふれているということでした。しかも、感心することに、道路の両端にバイク通行の列が数列できて、車の運転手たちもバイクの運転手たちも理路整然と運転しているのです。
そのうちに、ヘルメット着用の運転手を全く見かけないということに驚き、女性たちも赤ちゃんをおんぶしたり、子どもたちを後ろに載せて平然と運転していることにも驚きました。

そして、きれいな色の布マントを翻して走る女性たちの姿が目に留まり始めたのです。




背中の中央部分にアップリケや刺しゅうやフリルなどが付いて膨らんでいます。
女性たちは皆、その布を肩の片方に載せて胸のところで結び付けているようです。
そうなのです。
このマントは、赤ちゃんを保護する”Porte-bebe"と呼ばれるものでした。

写真を撮られることを嫌うアフリカの人たちの目を避けて、車の中から撮り溜めたこの美しい、愛情の象徴のようなマントたちの写真です。






 
自転車の女性だって、マントをひるがえして走行中。
クリーム色のporte-bebeの背中の真ん中にはフリルが付いています。わたしが小さいころ、少年たちに人気のあった遊び、「ちゃんばらごっこ」のさむらい?の恰好をほうふつとさせます。
このマダムのマントは白。
背中の中央には、毛糸のモチーフ編みのような四角い厚手布が付いています。これだと、赤ちゃんの体は衝撃に対してもしっかり保護されるでしょう。


このマダムの羽織るピンクのporte-bebeには背中の広範囲にフリルが付いておしゃれです。

porte-bebeは出産のお祝いにもらうのだそうです。
女の赤ちゃんが生まれたら、ピンク色やワイン色が選ばれ、男の赤ちゃんであれば、淡い青色やミントグリーン色が選ばれると言います。
布地サイズは、長方形でだいたい1.5メートルくらい。
ほとんどのporte-bebeの素材は、化学繊維入りのものだそうです。単純な理由で、綿100%のもののほうが赤ちゃんには良いのだろうけど、値段が張るからだということです。
赤ちゃん用品店で2500フランセーファー。綿100%だと1万フランセーファーもするからなかなか買えないと聞きました。


出産祝いでもらえるporte-bebeを、ワガドゥグの母親はだいたい5,6枚は持っていると聞きました。
中央アフリカ共和国のバンギでもコンゴのキンシャサでも、こういうおしゃれなporte-bebeは決して見かけませんでした。
ただ、アフリカンプリントの2ヤード(1.8メートル)で、赤ん坊の頭だけを出して、それ以外をくるりんと包んだ負ぶい方をするだけでした。
ワガドゥグでも、今でもそういった負ぶい方をする母親を見かけます。
こんな負ぶい方です。



もちろん、今もporte-bebeの下の赤ちゃんは、アフリカンプリントの布地で、頭だけ出して両足は母親の左右脇に固定されてしっかり包まれた状態で、保護マントで被っているそうです。

この赤ちゃん保護用のマントは、日差しが強いうえに乾季の埃舞うブルキナファソでは昔から存在したということです。
⓵赤ん坊を太陽の日差しから守る。
②風から守る(ここの人たちは風はいろいろなものを運んでくるといって忌み嫌います)。
③乾季には町中に埃が舞い(サハラ砂漠からの砂混じりの空気で町じゅうがかすんで見えるほど!)その汚れから守る。
さらには、布の下で、赤ん坊は子宮の中にいるような安らかな気持ちになる、ということも聞きました。
最初は、アフリカンプリントの布地を使ってマントのようにまとって赤ちゃんを保護していた布地だったが、だんだん、進化して母親たちがおしゃれを楽しむようになったと夫のプロジェクトの女性事務員は説明してくれました。
今では、その布地が改良されて、きれいな色の無地布に刺しゅうやアップリケやフリルなど工夫を凝らして楽しむようになり、赤ちゃん誕生祝いの人気のプレゼントとなっているのでしょう。
わたしには、このporte-bebeは、赤ん坊を持つ母親の「幸せの象徴」のように思えるのでした。