2019年8月31日土曜日

「ファダ・ングルマの王、死去」の新聞記事に寄せて

イエネンガ姫をこよなく愛する私を知っている、我が家のもの知り運転手が、ファダ・ングルマ(Fada N'Gourma)の王様が亡くなったことを教えてくれました。

2019年8月19日の新聞”L'Observateur”のトップ記事には、大きな見出しとともにファダ・ングルマ(Fada N'Gourma/ブルキナファソ東部の都市)の王様の写真が一面を独占していました。


 Gulmu(Fada N'Gourma)の王様、Kupiendieli,死去

   「太陽が東に沈んだ」





 続く記事には、"たった2週間の間に、もうひとりのモシ族の王の死去に続いてファダ・ングルマの王が亡くなった"、と書き添えられていました。
そのもう一人のモシ族の王とはBoussouma(ブスマ)の王のことです。

わたしはこの記事を辞書片手に読み終えて、フランス語の先生に一語一語確認をし、夫の事務所の秘書の女性を質問攻めにし、それから、わたしは運転手と我が家のコックに根掘り葉掘り聞きまくりました。しつこく、しつこく追いかけ回して。(ごめんなさい、とそして、ありがとう、です。)


まず、確認したことは、イエネンガ姫までさかのぼって、かのじょの息子のウェドラオゴ(初代モシ族の王様)には3人の息子がいたこと、そしてその3人が父親のウェドラオゴから引き継いだ領地のことからでした。

ウェドラオゴの長男、Zoungrana は、Ouagadougou(ワガドゥグ)へ、
ウェドラオゴの次男、Raoua は、Ouahigouya(ワイグヤ:北部マリのほう)へ、
ウェドラオゴの三男、Diaba は、Fada N'Gourma(ファダ・ングルマ:東部ニジェールのほう)へと移動し、今も子孫が続いているということでした。

ウェドラオゴの三男のDiaba Lompo は、後に馬に乗ったままバオバブの木を駆け上り、天に昇って消えていったという伝説の残る王様です。ディアバ(Diaba)が馬とともに駆け上っていったというバオバブの大木は、今もファダ・ングルマに立っていて、その幹には馬の蹄の跡が残っているのだそうです。(星の王子様っぽいファンタジーの世界ですね。)


次に確認したことは、この3つの領地のモシの王様に加えて、現在、ブルキナファソの国には5つの地域にモシ族の王様が存在する、ということです。

① Ouagadougou(ワガドゥグ)の王様
② Tenkodogo(テンコドゴ)の王様
③ Ouahigouya(ワイグヤ=Yatenga)の王様
④ Fada N'Gourma(ファダ・ングルマ)の王様
⑤ Kaya(カヤ=Boussma)の王様

この5人の王様のうち、カヤ(ブスマ)の王様がこの8月初めに亡くなり、2週間後にはファダ・ングルマの王様が亡くなったというのですから、ブルキナべには悲しみの8月(涙の雨季~実際に雨量が一番多い8月です。)となったことでしょう。

私の周りのブルキナべは皆、モシ族の人たちのせいか、この2人の王様の死のことをよく知っていて、かれらがいかに尊敬を集めた偉大な存在であったかを熱心に話してくれました。彼らが言うには、モシ族の人たちだけでなく他部族の人たちも同様に悲しんでいるということです。
私の周りの人たちの話を聞いていると、この国の部族間には壁も闘争心もなくて共存して暮らしているというイメージを持ちます。我が家のコックは、この国には部族間の争いは全くなく、平和だと言い切りました。本当に穏やかな国民性を感じます。

わたしは、この”部族”というカテゴリーのくくり方がイマイチ理解できません。
ファダ・ングルマの人たちのことをGulmantie(Gourmantche:グルマンシェ)と言ってモシ族と区別し、モレ語(モシ族の言葉)ではなくてグルマンシェマ語(langue Gulmantchima)を話すのだと言います。
では、ファダ・ングルマの人たちはモシ族ではないのなら、上の”モシ族の王様5人”には入れられないのではないの?、と訊くと、ウェドラオゴさんまでさかのぼるとかれらもモシ族だ、というのでした。
ウェドラオゴさんは初代モシ国王で、かれの三男のディアバさんはファダ・ングルマの初代王なのだと言うのです。ちなみに、ウェドラオゴさんが初代モシ王国の王様だけど、母のイエネンガ姫や父のリアレさんはモシ族ではないというブルキナべもいます。ちょっと混乱します。
”部族”というくくり、概念が、この地域一帯ではちょっと日本人の私たちと違うのかなあ~。


王冠である帽子を被り、ファソダンファニの民族衣装姿の第31代ファダ・ングルマ王、クピエンディエリ


ともあれ、この死去記事の主人公のファダ・ングルマの王様、クピエンディエリ(Kupiendieli)さんは、1935年にファダ・ングルマで生まれ、ゾーゴ(Zorgho,ブルキナファソ国内)に続いてバマコ(マリ共和国)、フランスで勉強し、その後、国会議員に選出されて国会の議長や副大統領を歴任するなど輝かしい経歴を持ち、67歳で31代目のファダ・ングルマの王様となり、2019年8月16日の夜から17日に日付が変わるころ、84歳で亡くなったのだそうです。

”偉大なる賢人(クピエンディエリ王)の死の報を受けて、ブルキナ政府から賢人へのお悔やみの声が満場一致でいたるところから沸き起こった。伝統的なものを守護してきた、信念の人の思い出に別れを告げるためのメッセージであった。”

2019年8月。ブルキナファソのモシの2人の王様~ブスマ(Boussma/Kaya)王とファダ・ングルマ(Fada N'Grourma)王~の死去は、ブルキナファソの人々、ブルキナべにとって、大きな悲しみのニュースだったのでしょう。

今も連綿と続くMogo Naba(モレ語で、モシ族の王)の国、ブルキナファソ。

わたしには、かれらの中に、遠く、ウェドラオゴさんが、そしてイエネンガ姫が見えるように思うのでした。(イエネンガ姫かぶれより)

2019年8月26日月曜日

雨季のゴルフ場の野の花たち




雨季に入ってゴルフ場にも緑があちこちにぽっこり顔を出して、わたしたちに和みをもたらしてくれます。
こんな水色の小さな草花も見かけます。
まるで、日本のオオイヌノフグリのような花です。
ブルキナフグリ、ですね。
ちょっと小ぶりですが、こんなサヘル地帯に咲いてくれて、いとおしいです。








十字架型の葉っぱに十字架型の小さな白い花を持つ草花も見かけました。日本人だったら、この草花にどんな名前をつけるのでしょう。ホトケノザとかネジバナ、キツネノボタンやカラスノエンドウ、・・・脱帽ものの命名力ですよね。日本の草花は幸せものです。

2019年8月25日日曜日

ブルキナファソからの民藝~かごと藍染布




到着して早々のワガドゥグで、コンパオレさんというブルキナべの、大男だけど目の優しいムッシュを紹介されました。かごと藍染布を制作するアトリエを持つコンパオレさんは、いつもここの伝統服に身を包み、でかっ腹を前に突き出してにこやかに笑っています。妹さんもお兄さんに似てにこやかな大柄な女性です。

何度かかれのアトリエを訪ねましたが、あれこれ物色するのはストレス解消にもなります。

かれは、日本やアメリカなどにかれのアトリエで作られる商品を輸出しているのだそうです。だから、日本人の好みや商品に求めるものを熟知しているように感じます。
横浜で開催される第7回アフリカ開発会議TICADに合わせて、かれも来日して彼のアトリエでの制作品を販売すると話していました。

上の写真は、わたしが日常に愛用するかご。そして、リビング椅子背もたれには藍染布を掛けています。
コンパオレさんのアトリエには、赤や緑のカラフルなカゴもあります。取っ手は赤茶色の皮で包まれていて、しっかりした作りです。

先月、かれのアトリエを訪ねた時、奥の部屋に藍染布が山積みになっていました。
こちらは、日本輸出用ね、あっちはアメリカ輸出用ね・・・すごい量でした。





昨年の夏から秋にかけて開催された、岩立フォークテキスタイルミュージアムでの企画展、「アフリカの藍、日本の藍」に展示されていた、世界の藍染布地を思い出します。
この企画展の案内文の始まりは、
「力強く大胆なアフリカ、やさしく端正な日本。おそらく世界中で藍ほど多くの国で使われて、愛された染料はないだろう。・・・」
アイヌの藍の布も素晴らしかった。
それぞれの民族の中で育まれた風合いが”藍”という色に交わって日常生活に入り込んでいるのだなあと感動しました。
まさに日本の民藝運動のエスプリ、”用の美”です。
また、日本とアフリカの藍染の原料となる植物が違うということも知りました。日本の藍はタデ科植物由来。アフリカの藍はマメ科植物由来だとのこと。(「日本の藍 ジャパン・ブルー」紫紅社文庫)

キンシャサで藍染布をついぞ見なかったので、この国に来て藍の布地に出会ったときはとても感動しました。
今回の横浜TICADに合わせて開かれるアフリカ物産展で、アフリカから運ばれたものの中に日本の「民藝」に共通する匂いを感じてもらえたらなと思います。
そんなことを通しても、アフリカと日本の距離が少しでも近くなれるのではないでしょうか。


2019年8月18日日曜日

ワガドゥグの気候の移り変わり

雨季のワガドゥグは、毎日、厚く重い雲で空が覆われ、心もどんより~。
ちょっと折れてしまいそう~かな。

雨季だし太陽も隠れているし、いっちょゴルフ全コース18ホールを回ってみるか、と血迷ったことを考えた(夫にそそのかされた!)のがいけなかった・・・根性で初めて18ホールを回り終えた瞬間、目の前が真っ白になってへたり込んでしまったのでした。
8月4日、日曜日のことでした。
そのあと数日間ベッドに横たわり、頭痛と首肩の凝りと、胸やけで、半死状態でした。
水分補給と常備薬の漢方薬と、ワガドゥグにあるタイ古式マッサージのサロンで1時間みっちり受けた全身ほぐしでどうにか蘇りましたが、アフリカで根性なんぞ出すものではありません。(今も体の中に余韻を感じます・・。)
わたしの実年齢もすっかり忘れておりました。
肝に銘じましょう。

8月に入ってあまり雨が降らないのは例年とは違う天気だ、とワガの人たちはちょっと心配げ。サヘル地帯にかかるワガドゥグでは、7,8,9月としっかり雨量を稼がなきゃならない季節だというのに、私まで、一緒に心配しています。

ここで面白いグラフを見つけました。


年間気温と降雨量・ワガドゥグと東京の比較(旅行の友、Zen techより)


ワガドゥグと東京の天気の比較グラフです。
最高気温、最低気温、それに降雨量がそれぞれに記されています。
できたら、これに、湿度変化も入れてもらえると、もっとおもしろく気候の比較ができたでしょうが。(わがままはいけませんでした。)

このグラフを見ると、わたしたちがワガドゥグにやって来て引っ越し先を探し回り害虫駆除に大わらわだった3月4月が、いちばん暑くてカラカラに乾燥した時期だったことがおわかりでしょう。

ワガ到着すぐに、エライとこに来てしまった・・・緑がない・・・カラカラに乾いている・・・。
土ぼこりでもうもうとした町を見て、暗い気持ちになってしまったというのが当時の本音です。

当初は、車に乗り込むときはマスクをして飴玉を頬張り、喉をガードしていました。ホテルにいるときも、寝るときはマスクをして濡れたタオルを部屋に掛けて、加湿器を部屋に置いていました。
ああ、ここの乾燥気候に合わせて、カリテ(シアバターとも言い、木の実の油分を搾取したもの)というものができたのか・・まさに生活の知恵だ!、とか感心せずにはいられませんでした。こんなに乾燥しているのに、しわくちゃマダムが見当たらないのですから。

乾燥と埃の町ワガドゥグを象徴するかのように、町でバイクにまたがる人たちはヘルメットは被らず、マスクをしていました。”頭隠さず尻隠す”的状態でちょっと異様でした。

3月の3週間、のどの痛みとそれに続く咳込みのひどさに体全身が筋肉痛を起こして苦しみました。埃アレルギーで、ワガドゥグの気候が合わずに帰って行った人もいると聞いて、ますます暗く落ち込みました。

ところが、今では全く平気!
埃っぽさを感じないのは、雨季のせい(湿度が日本並み)でしょうか。それとも、体が環境に順応していったのでしょうか。
でも、朝、拭き掃除をしたというのに、夕方に床を拭くともう雑巾は赤土がべっとり付きます。
雨季だから湿度が高くて、埃は町中漂っていても、湿度で埃は地面に落ちてゆくのかもしれません。

日本気象協会8月18日5:00(日本時間)発表のワガドゥグの天気予報をみると、
最高気温 29℃
最低気温 23℃
平均湿度 80%
風速 1m/s
晴れ一時雨

この先1週間の天気予報は、
最高気温 27~30℃
最低気温 23℃
湿度 77~86%
風速 1~2m/s
おおむね、雨の予報

はるか遠いアフリカの一都市であるブルキナファソの天気予報まで提供する日本気象協会にも頭が下がります。これも、宇宙で周回する気象衛星のおかげかな。

このグラフを見ると、ワガに数年暮らす日本のかたが12月、1月は寝ていて毛布が要るくらいだと言っているのが理解できます。

ワガの空に真っ赤な夕陽が沈んでいく



イスラム寺院の塔の向こうに沈む夕日 2019.8.16.18:27頃


雨季のワガドゥグです。
今月に入ってあまり雨が降らないせいか、きれいな夕陽が観られないー、と寂しがっていたら、2日前の午後にちょこっと雨が来て雨雲が取り払われて、こんなにきれいな夕陽を拝むことができました。
夕方、ふっと気づくと西の空がオレンジ色に染まっているのに気づき、携帯電話を持って慌ててアパートの階段を駆け上って3階テラスから撮った写真です。

ワガドッグらしいのは、夕陽に映えて幾本かのイスラム寺院の高い塔のシルエットが映っていること。(スカイツリーではありませんぞー。)



すっかり太陽が沈みきったのは、18:28過ぎでした。

夏至が過ぎてそろそろ2か月になりますが、少しずつ日没時間が早くなっています。
調べると8月18日の日の出は05:52:11で、日の入りは18:27:43となっていました。
(そういえば、お恥ずかしながらワガドゥグの日の出を見たことがないことに気づいた。)
では、夏至の頃(6月21日)はというと、日の出05:39:28、日の入り18:36:16ということです。

少しずつ、昼間の時間が短くなっています。ワガドゥグは東京ほど極端ではありませんが、それでも、日が短くなるのはやっぱり寂しいです。

3月、4月の季節は乾季だから夕陽をばっちり拝めるか、というとそうではなくて、サハラ砂漠からの土埃で空全体が霞んで、西の空に太陽が傾きかけるともう薄い埃のベールに自然消滅していました。

だから、雨季の時だけのお楽しみと思って、きれいな夕陽を拝みたいです。
夕陽って何度観ても心洗われます。
感謝!

2019年8月13日火曜日

L’éléphant vert: アフリカの歴史を読む

ワガドゥグで2冊のアフリカの歴史の本に出会いました。

一冊は、我が家の博学運転手がワガドゥグの図書館で借りてきてくれた西アフリカの歴史の教科書。もう一冊は、ワガドゥグの日本大使館図書室で見つけたアフリカ史の本です。

絵本屋ブログに書いたものを、記録としてブルキナブログに転載したいと思います。



L’éléphant vert: アフリカの歴史を読む:  このワガドゥグに暮らし始めて、ブルキナファソのモシ王国の歴史を知り、マリ王国の建国物語を知り、西アフリカには王国が林立していたことを知ると、俄然、アフリカ全体の歴史を知りたく...

2019年8月12日月曜日

Tabaski~イスラム教最大の祭り

わが家のアパート庭に縄で繋がれた羊が!

ワガドゥグはまだ8月11日です。
今日と明日は、”Tabaski”というイスラム教大際の祭りです。”犠牲祭”というと合点がいきます。
でも、”Tabasiki”というのは、初めて耳にする言葉でした。西アフリカで使われる言葉のようです。
イスラム教徒の割合の多い西アフリカにあってブルキナファソもその一つの国ですから、11日、12日両日、イスラム教徒たちは大いに賑わうのだそうです。
今日(11日)は日曜日ですが、明日(12日)は国の祝日になっています。

わたしたち夫婦は、イスラム教徒の多い国に暮らすのが初めてなので、”Tabaski"の意味も分かりませんでした。それがイスラム教徒にとって、どんなに重要な祭りであるかも。
土、日曜日は、普段、我が家のコックさんと私用運転手は休みです。だから、今回は、土、日、月曜日と三連休になります。
週末の金曜日、運転手はキリスト教徒なので、すんなり勤務時間内に帰って行きましたが、コックさんはなかなか帰りません。ゆっくりゆっくり仕事をして、まるで夫の帰宅を待っているかのようでした。夫が帰宅しても、何の変化も起こらないのを悟ると、コックさんは、帰り支度をしてから、おもむろに、日本にはTabaskiはないのか、と訊いてきました。わたしは、日本人のほとんどは仏教徒だからTabaskiという言葉を初めて聞いた、と返しました。かれは納得したかのようにちょっと寂し気に、わたしからの「Bonne fete!」(良いお祭りを!)と言う言葉を背中に受けて帰って行きました。控えめな性格のおじさんです。


なんだか、コックさんのがっかりした様子が気になって、以前、ブルキナファソに住んでいた友人にメイルをするとすぐに返信が届きました。

そうして、わたしたちは、”Tabaski”という祭りはイスラム教最大の祭りで、家内の使用人たちには祝い金をはずむ慣わしがあるということを初めて知ったのです。
確かに、バンギでも、キンシャサでも、キリスト教徒だった使用人たちのクリスマスのために祝い金を贈っていたことを思い出しました。
それから、バンギで羊が生け贄になるために隣の家で絞められて鳴き声を上げているのを耳にしたことも思い出しました。

そうだった!迂闊だった!

夫は、イスラム教徒のコックさんにすぐに連絡し、祝い金を今度の勤務日に用意しておくから、心配せずにお祝いをしてくれと伝えていました。

というのも、この”Tabaski”(犠牲祭)には、家長が一頭の羊を買って、神にささげて、その後、親類縁者でご馳走を食べるのだそうです。
だから、犠牲祭の前は羊の値段が高騰するとも聞きました。
羊が買えない家庭では、山羊。それが無理なら、牛。それも無理なら、鶏を買って祝うのだそうです。
犠牲祭の神にささげるのは、羊(雄)の肉が基本だということです。

私用運転手はキリスト教徒なので、かれにはクリスマスの時に祝い金を渡すことにしました。キリスト教徒は、犠牲祭の時はイスラム教徒の家に招かれてご馳走になるということです。

”Tabaski”。
イスラム教最大のお祭り、犠牲祭。
西アフリカの国で、初めて出会った言葉でした。

2019年8月9日金曜日

正午を過ぎたらボンソワール

ワガドゥグの町に夜が来る

8月に入って、驚くような激しい雨は降りませんが、朝晩は重い雲が空を覆い、就寝時や午前中はエアコンを付けないで過ごせます。
日没は午後6時20分ちょっと過ぎです。

今日は、ワガドゥグの独特のあいさつについて書き留めておきたいと思います。

日本だったら、午前中までは「おはようございます」、正午近くになると「こんにちは」、夕暮れ時から「こんばんは」というあいさつを交わします。

ところが、ワガドゥグの皆さんは、正午すぎた途端に「Bon soir~ボンソワール」と言うのです。
それが不思議で不思議でしかたありませんでした。

フランスでもバンギでもキンシャサでも、「Bon soir」は夕暮れ近くなってからのあいさつ~こんばんは~でしたから。
”soir”の言葉を辞書であらためて調べてみると・・・。
夕方、夕暮れ。日没前後から真夜中までを漠然とさす・・・となっています。

でも、ワガドゥグの人たちは正午を過ぎた途端に「Bon soir」です。
まだ、お日様は高いよー!と言いたくなります。

何で「Bon soir」なのよ。
と、何人かの人に訊いてみました。
博学の我が家の運転手さんと夫の秘書の女性は、きっぱり言いました。
(ふたりともモシ族の人です。)
わたしたちの言葉、モレ語には一日のうちで5つのあいさつの言葉を持っているのです、と。

Ne y yibeogo (ネ・イビョオゴ)・・・朝のあいさつ

Ne y sonre (ネ・ソンレ)…午前9時頃から11時頃のあいさつ

Ne y wininga (ネ・ウェンニガ)・・・午前11時頃から午後2時頃までのあいさつ

Ne y zaabre  (ネ・ザァアブレ)・・・午後2時頃から夕方6時頃までのあいさつ

Ne y yuungo (ネ・イヨンゴ)・・・夜7時頃からのあいさつ

”wininga”、”zaabre”、”yuungo”と区別して使われる言葉がフランス語にはないので、だいたい13時以降には仏語の「soir」を代用しているのだと二人は説明してくれました。

それに加えて、フランス語の先生(かのじょもモシ族)は、アフリカの生活には時計がなかったから、ずいぶん長い間、太陽の位置で時間の流れを測っていた。太陽がいちばん高いところに来て、それを過ぎたらもう一日の半分が過ぎた、と考えていたのでしょう、ということです。「太陽の一番高い位置」を基準にモシ族(他の民族も?)の人たちは暮らしていたのかなと考えると興味深いです。
ちなみに、ブルキナファソのもう一つの部族、デュラ族(ボボ・デュラッソというこの国第2の都市の人々)の言葉であるデュラ語には4つのあいさつの言葉があるそうです。

午後のことをフランス語では、「apres-midi」だから、午後のあいさつは本来なら、「Bon apres-midi」になるのでしょうが、フランス本国では違った意味になって、「良い午後を(お過ごしください)」と言う、別れ言葉のニュアンスを持つようになります。

ちなみに、フランス本国でもバンギでもキンシャサでも、よく別れ際に「Bonne journee」、「Bon apres-midi」、「Bonne soiree」と言う言葉を交わしていました。
それぞれに、良い一日を、良い午後を、良い晩を、という意味です、というより、時間帯によって使い分ける「さよなら」と言う言葉ですね。
でも、ここ、ワガドゥグではこの別れのあいさつは一般的ではないかも。スーパーでも「Bonne journee」と声を掛けられたことはないと思います。
「Bon nuit」、これはおやすみなさいというあいさつですが、これもあまり聞いたことがないなあ。(というか、夜の外出は控えるように言われているので、聞く機会がないだけかもしれませんが。)
我がアパートの門番の人たちは、夜に帰宅しても「Bon nuit」とは言いません。

その代わりに、本当に良く耳にするワガ特有(?)の言葉があります!

「Bonne ariivee」

直訳すると良いご帰還を、でしょうか。普通に言いなおせば、おかえりなさい、ですね。
外出から戻ると、必ず、門番のお兄さんも我が家のコックさんも、そう言って迎え入れてくれます。
それに加えて、いらっしゃい、という意味も入っていると夫は言います。
(毎朝、夫が事務所に到着すると、先に着席しているスタッフから、「Bonne ariivee」とあいさつされるのだそうです。なるほど。これは、良い到着を、という感じで使われるのでしょう。いらっしゃい、という意味合いになります。)

「ボン・アリベー」
おつかれさま~♪、みたいな気持ちも入った、ほっこりしたこの言葉の響きが、わたしには心地良く感じられます。

カナダでは、また違ったフランス語のあいさつがあると聞きました。
フランス語圏の中でも、その土地、その土地で育まれた独特の言い回しがあるのでしょう。

2019年8月3日土曜日

マンゴーの季節が終わりました





今年3月の3週間、滞在したホテルの庭のマンゴーの木とマンゴーの実

いよいよ8月、雨季たけなわです。
ワガドゥグの雨は、あたりが真っ暗になったかと思うと突風が吹き荒れてあたりの視界が遮られいろんな物が町中を飛びまくり、直後に滝のような豪雨に見舞われるというパターンと、日本の梅雨のように午前中からしとしと静かに降り続くパターンとあるようです。

7月最後の昼食のデザートはマンゴーでした。
わが家のコックのおじさんから、これで今年のマンゴーはおしまいです宣言が出ました。
すると、マンゴー大好きムッシュの夫ががぜんマンゴー発掘に闘志を燃やし始めました。こんなにおいしいマンゴーがもう来年まで食べられないとは我慢できない!、というのです。
いつも自分でマンゴーを買ってくる夫は、確かに最近、道端の果物売り屋台でマンゴーを見かけなくなったと思っていたんだ、と慌てまくった様子。

マンゴーは毎年、3月に出始め、4月、5月、6月と旬を迎え、雨が降り始めると少なくなって、7月でマンゴーの季節は終わるのだそうです。

夫は、コックさんにマンゴーコンポートにして保存できないかと相談を持ちかけ、請け負ってくれるや、昨夕、仕事から戻ってきた夫は、大量のマンゴーの入ったビニル袋をぶら下げて帰宅しました。
血眼になってマンゴーを求めて町中探し回ったのでしょう。
砂糖も要るしな。
抜かりありません。
この人、どんだけマンゴー好きなのか!!!、と今さらながらに再確認。

今まで滞在してきた都市の中で、ワガドゥグのマンゴーの美味しさは最高だ!、と言い張ります。ワガドゥグのマンゴーではなくて、ここから南西に行ったボボデュラッソという農業地域からのものかもしれませんが、とにかく、この町で食べるマンゴーが世界一だと夫は確信を持って言います。

昼食が終わって、早速、マンゴーコンポート作りの準備にかかったコックのおじさんは、カットしたマンゴーの実を見せながら、ほら、こんなに黒くなっている、雨が多くなって実ったマンゴーは良くないんだ。
わたしは、実が黒くなったのはどんどん処分していいからと伝えました。マンゴーは山ほど積まれているのですから。

と言うことで、出来上がったマンゴーコンポートです。

保存用マンゴーコンポート

さて、このマンゴーコンポートはどのくらい保存がきくのでしょうか。
冷凍してシャーベット風にいただくのもいいのかも。