2022年2月9日水曜日

イエネンガ姫の精神が息づくブルキナファソの女性たち

 ワガドゥグの町は、びっくりするくらいバイクの多い街です。
夫が言うには、日本のYAMAHAが50年前にノックダウン輸出(部品のままで輸出し、現地で完成品に組み立てて販売する方式)を始めてトヨタの代理店、CEFAOで購入が可能になったということです。
町じゅうにmoto(=バイク)がすばらしい規律を守って走り回っています。バイク専用レーンのある道路もあります。
今では、自転車は少数派になっていますが、15年前までは、自転車の数のほうが多かったそうです。
ブルキナファソほどバイク走行数の多い国はない、と言えると思います。






さらに驚くのは、女性のバイク運転が多いということです。
バイクを運転する女性の写真を並べてみました。
ハイヒールとタイトスカートで、長いアフリカンドレスで、赤ちゃん用マント~Porte bebe~を翻して、あるいは、アフリカン布地に蓑虫よろしくぐるりと(赤ちゃんの顔だけ出して)巻いておんぶして、女性たちが勇ましくバイクを運転しているのです。
2,3人の子どもを前後に載せて運転しているマダムたちさえ見かけます。

ここの女性たちは、仕事をもって働くのが当たり前だという考えを持っています。それは、サンカラ元大統領が女性の社会進出を唱えた政策にも起因するのでしょう。
政府にも普通に仕事をこなす女性がいると見受けます。

そして、絶対に見逃せない影響力を持つ女性が、ブルキナファソにはいるのです。
女性でありながら、愛馬にまたがって弓矢や槍を自由に操って戦闘に活躍したイエネンガさんです。1100年代に実在した、ブルキナファソの建国の母として今も敬愛され続ける女性です。
イエネンガさんの歴史を紐解くと、ブルキナファソの女性がバイクを運転するのが当たり前のことだということが理解できてきます。
イエネンガは、女性でありながら愛馬にまたがって戦いに活躍し続けました。
結婚して、3人の息子を育てた母親でもあります。
そんなイエネンガの姿勢がブルキナファソの女性にも自然に育まれたものだったのでしょう。
自立した女性が多い国、ブルキナファソ。

とはいえ、パーティーなどでは、女性は一歩引いて、男性が着席するのを待ってから、女性が着席するといった気遣いも持っています。まるで、日本の武家の女性のようです。秘書の女性が言うには、小さいころから、男性が先に、ということを母親や祖母から習い身に付いた風習だと言っていました。ちなみに彼女はモシ族の女性で、イエネンガ姫の部族に繋がっています。

 これで、ワガドゥグで綴ってきたわたしのブログはおしまいです。
でも、まだまだ、書き残したブルキナファソでの見聞記が山積しています。日本に帰国しても、しばらくは、ワガドゥグで書き残したものを更新していきたいと思っています。

それでは。夫の事務所に毎日通って書いてきたものはこれで終わります。
これから、自宅アパートに戻ってシャワー浴びて、最終準備をして、飛行場に向かいます。
2月9日19:40ワガドゥグ発のフライトで出発します。

足掛け3年のワガドゥグとの交わりにたくさんの感謝を言って。さようなら。
ありがとう!ブルキナファソの人たち。

ワガドゥグのヤモリ

 フランス語でヤモリのことを”ジェッコ”~gecko~と言います。


このgeckoを、ワガドゥグの女性たちは特別に嫌っているように感じます。
特に夫の事務所の秘書の女性は、事務所にヤモリが出たら、もうきゃあきゃあ叫んで、男性たちがヤモリを退治するまで外に出て、決して室内に入ろうとしません。男性たちも、秘書の女性を守らんばかりに机や本箱を移動して、ヤモリを執拗に追いかけまわして息の根を止めるまで格闘するのです。
その女性の自宅を一度訪ねたことがありますが、かのじょの家には一匹たりともヤモリもゴ●●リもいない!、ときっぱり言いました。もし見つけたら、ご主人が退治してくれるのだそうです。とてもきれいなこじんまりした部屋でした。

かのじょに、どうしてそこまでヤモリが嫌いなのか、尋ねてみると・・。
肌が透き通っていて、顔が異様にでかくて、顔に不釣り合いなくらい目が大きくて、手の先っちょが丸くなっていて、ジェッコが這いまわった食べ物には毒があるのだ・・・ときりがないくらいいろいろと並べ立てていました。
わたしも虫は苦手だから、本物のヤモリの画像は出さずに、かのじょがキモチワルイ~といいながら描いたヤモリの絵のほうを載せましょう。




笑いますね~。
かのじょは大真面目にこのヤモリ似顔絵?!を描いていました。ヒェ~~~と言いながら。
確かに、ここのヤモリは日本のヤモリより肌が透けて見えるように(肌が薄い?)ように思います。
日本では、ヤモリは、「家守」とも書いて、家を守る=小さな害虫を食べてくれて家の中の虫を退治してくれる、と言われている。だから、わたしたち日本人は、ヤモリを決してやっつけないし、目の敵ににしないのだと説明したのだけど、きゃー信じられないー!、とまた悲鳴を上げていました。

それと、日本のヤモリは鳴きますか?
わたしは、ヤモリが鳴く、なんて、つい4,5か月前まで知りませんでした。

我が家では、ケッケッケッケッ、と音がすると、夫婦二人で、ああまた電圧が上下して電気が悲鳴を上げているのだな、と話していました。
ある夜、お客さんを囲んで食事会をしていたときのこと。
ケッケッケッケッと音がしました。
やあ、すみませんねえ、最近、特に電圧が不安定で電気が悲鳴を上げるんですよねえ、と夫。
え。今の鳴き声ってヤモリですよ。お客の言い分。
ええっ!ヤモリ?ヤモリが鳴くんですかぁ、とわたし。
そうですよぉ、ヤモリが鳴くって有名じゃないですかぁ。
…知りませんでした、夫もわたしも初耳でした。ヤモリが鳴く!

夫の秘書の女性は、ヤモリのそのケッケッケッケッという鳴き声も気持ち悪い、許せない、と真顔で言うのでした。

わたしのフランス語の先生(ブルキナファソの女性)にその話をすると、かのじょもヤモリが大っ嫌いだと言います。ちょろちょろ~っと視界に何かが動いただけでゾゾ~っとすると言います。やっぱり、鳴き声も不気味だと言っていました。
確かに、素早く動く何か、って怖いです。
わたしは、ゴ●●リが大大大っ嫌いだから、ものすごくその言い分には同感できます!
わたしは、ゴ●●リだんごと防虫シートをアフリカにもいつも持っていきました。日本食を削ってもこの2つはアフリカ生活の必需品だと思って持ってきていました。

キンシャサにいるとき、お寿司の食べられる日本料理レストランがオープンしたのですが、その名も”GEKKO”(フランス語ではgeckoだけど、gekkoとも書く?)。
店のお皿にもついているロゴマークが・・・。



キンシャサの日本料理店、”GEKKO”のマークにヤモリが!

発音がゲッコー、と言っていた(コンゴキンシャサはベルギー領だったから、フランス語もベルギー訛り?)ので、わたしは日本料理店の名前の言われは「月光」、月の光から来ていると勝手に解釈していました。また、ここの店主(レバノン人女性だったかな)は、日本では「家を守ってくれるヤモリ」だということを知っているから、ヤモリの図案を採用したのだとさえ思っていました。
しばらくして、ヤモリのことをゲッコーというのだよとコンゴ人に言われて、今度は、この店は日本語の「月光」と仏語のヤモリ「ゲッコー」を掛けて、日本料理店の名前にしたのだとまで勝手に思い込んでいたのです。ヤモリは家を守るんだもんねえ~と。
まったく良いネーミングだこと、と感心していたのです。

この、キンシャサにある日本料理店のマークを、ワガドゥグの夫の秘書の女性に見せると目を皿のようにして、驚き呆れていました。信じられないー!!!と!
今思い返すと、確かにキンシャサの人は、ヤモリを嫌ってはいなかったように記憶していますが。

ヤモリを苦手とするのはブルキナファソの女性だけでしょうか、それとも、たまたま、わたしの周りの知人女性たちがヤモリ大嫌い人間だったというだけのことでしょうか。

確かに、ワガドゥグのヤモリは肌が薄くて透け感があって、指の先が丸くて、ちょろちょろ動いて不気味ではあります。家の中によく出没するし。
サヘル地帯のヤモリと、熱帯雨林地帯のヤモリは異種なのかもしれません。(はて?)

それでも、わたしが小さいときから大人たちから聞いていた、「ヤモリは家を守る~害虫を食べてくれるのだから殺してはいけないよ」という言葉通り、ヤモリを退治しようとは思いません。
ゴのつく害虫だけは絶対に許せないけど。(と言うより、恐怖!!!)

ワガドゥグのヤモリはケッケッケッケッと不気味に鳴くけど、日本のヤモリは鳴きますか?

サッカー・アフリカカップでブルキナファソ4強入り

 ブルキナファソには、”エタロン”(Etalon)というブルキナファソの人たちから愛され続ける、長い歴史を持つ大人気のサッカー・ナショナルチームがあります。
サッカー熱にあふれるブルキナファソで、ナショナルチームの名前、”Etalon”(フランス語で牡馬、種馬の意味)は、もちろん、ブルキナファソ国民が敬愛するイエネンガ姫の愛馬、ウェドラオゴ(モレ語で牡馬、種馬の意味)から来たものです!
そして、イエネンガ姫の愛馬がサッカーナショナルチームのロゴマークになっているのです!



ブルキナファソのサッカーナショナルチーム”Etalon”のマーク

皆から愛され続けるサッカー・ナショナルチーム”Etalon”ですが、アフリカカップでも優勝は一度もないのだと、ちょっとがっかり気にブルキナベたちは言います。
それでも(それだからこそ?)、かわいがられ愛され続ける国民のサッカーチームです。
ロゴの中の、FBFは、”Football du Faso”からだそうです。

今回のブルキナファソのクーデター騒ぎで首都が混乱しているさ中、カメルーンで開催された今年のアフリカカップ準々決勝でブルキナファソ”Etalon”チームがチュニジアチームに勝利して4強入りしたときは、ワガドゥグ中が沸きました。
そして迎えた2月2日、水曜日夕方の準決勝のブルキナファソ対セネガルの試合時間には、ブルキナファソ国民は家のテレビにかじりついてワガドゥグ中の町に人っ子一人通らず?しーんと静まり返ったと聞きます。

ワガドゥグのチョコレート屋、”Chez Chef Andre”店内

上の写真は、アフリカカップ開催中のChez Chef Andreの店内の様子です。
大きなゴールドのフットボールはプラスティック製ですが、中にチョコレートが入っていると店員が言っていました。ショーケースの手前には、そのフットボールの形のチョコレートが量り売りされていました(上の写真の右下)。

残念ながら、Etalonチームはセネガルに勝つことはできませんでしたが、4強入りを果たしました。
もう一組のエジプト対カメルーンの試合は2月3日に行われてホスト国であるカメルーンを下してエジプトが決勝進出。

結局、2月6日(日)の決勝戦は、セネガル対エジプトとの戦いで、セネガルが優勝。
エジプトが2位になりました。
3位決定戦は2月4日(金)に行われて、ブルキナファソが3-0で先制点を挙げたものの、結局、カメルーンが勝ち、カメルーン3位。
ブルキナファソは、4位に甘んじました。
先制点を取ったのはブルキナファソだったこともあり、ブルキナベたちはものすごい落胆ぶりだったと聞きました。
この時の試合の間も、家での試合観戦に皆が集中して、町なかはものすごい静寂に包まれた夜だったそうです。

セネガルは、アフリカカップで初優勝だったということです。
エジプトは7回の優勝、カメルーンは5回の優勝経験があり、コートジボワールも1回優勝しているのだとか。でも、ブルキナファソの優勝はまだだと聞きました。
どこの国も、祖国のサッカーチームの贔屓ぶりは熱いなあと感じます。

ブルキナファソのサッカーのナショナルチームの名前まで、イエネンガ姫絡みだとは、これにもびっくりです。

来年のアフリカカップ開催国は、コートジボワールでということです。
来年こそ、ブルキナファソチームが優勝しますように。
Etalon、がんばれー!!!(すっかりEtalon贔屓になりました!)

2022年2月4日金曜日

今年3回目の苺

 


昨日、2月3日の夕方に産地直送で届いたバイオ栽培の苺が届きました。


二年前の今ごろ、ワガドゥグ郊外で農業の共同体を組織しているというブルキナファソの青年とフェイスブックで繋がりました。今のこの時期は、苺の収穫ですと紹介されていて、きれいな苺の写真が載っているのを見て、電話したことから、2020年の1月、2月、3月のなかばまで、かれが農作業を終えた日没後にバイクに乗って(1時間ちょっとかかると言っていたかなあ~)新鮮な苺を届けてくれたものです。
町で買うより、苺の傷みが少なくて、よりみずみずしい苺だったのを思い出します。

そして、今年2022年。1月20日頃だったでしょうか。
そろそろ苺の季節が始まるなあと、携帯電話を連絡帳を繰ってみると、なんと”苺屋”と書かれて残っていた番号を見つけました。2年近くぶりに電話すると、すぐにその青年と繋がりました。今も、イチゴ栽培を続けているとわかってうれしかった!
(2021年の苺の季節はコロナ禍で日本に帰国を余儀なくされていました。)

「もうあと1週間待ってください、そうしたら美味しい苺を届けます。配達の前に電話します。」
ちょっと貫禄の出た声での応対でした。
ここの人たちの1週間というのは10日ちょっとを想定すべきかなと待っていたら、2月2日にかれから電話が入りました。電話口で、1パック4000f、配達料1000fだとのこと。2年前より、ちょっと値上がりしていたかな。うろ覚えだけど・・・。
では、2パックお願いね、と言って、翌日の夕方を待ちました。(1パックは2kgほど入っていました。)

わたしはちょうどシャワーを浴びていて夫が対応していましたが、配達人はなんと現地版Uber!になっていました。
もう、かれ本人が農作業を終えた後に届けてくれるということはなくなったのでした。
Teslimさんという名前だったなあ。
2020年の3月13日の日付の残る写真が出てきました。Teslimさんが農作業を終えて自らバイクで届けてくれた時のものです。


我が家アパート玄関ドア前でTeslimさんと苺3パック(2020.3.13.)

Teslimさんは自分の農業の仕事に真摯に取り組む青年でした。やっぱり、かれの苺は甘くておいしかった!
かれの苺栽培の仕事が順調に行って、これからも長く続きますように。

おそらくワガドゥグで最後の苺が届いた2月3日の夜。
夫と二人で、部屋の明かりを消して、大豆の代わりに”ポワ・ド・テール”(ここの人たちの大切なスナック豆です)で豆まきを小声ででやりました。この国の人たちは、豆まき、なんて知らないでしょうから。そ~っと。
♪鬼は~外! 福はあ~内!!!♪


2022年2月3日木曜日

ワガドゥグで出会った小学生たち

 

朝の地元スーパーマーケット前風景

昨日、2022年2月22日と2が並んだ日。
朝8時頃、夫の事務所への途中にある地元のスーパーマーケットでおやつのビスケットを買おうと立ち寄ったときの話です。

レジに並んでいると、わたしたちの後ろに小学校5,6年生くらいの女の子ひとりと男の子二人が私たちを見て、わ~シノワだ~、とひそひそ話しています。アフリカでは、アジア人を見るとよく中国人だと見下げた感じで言われますが、この子たちの言い方にはそんな響きを感じません。多分、アジア人が珍しくって、中国人かなあ、と興味本位で話していたのでしょう。


わたし 「ちがうんだぁ。わたしたちは日本人なのよ~。」
かれら 「え、日本人。ナルト、キメツの国だ。」
わたし 「あら、その物語を知ってるの。」(びっくりもし、うれしくもなる。)
かれら 大きく、ウンウン。(目が輝いている。)
わたし 「日本はここから遠い、遠い国だからねえ。」
かれら はて? と、視界を漂わせる。(日本の国がどこにあるのか想像もつかない?)
わたし 「わたしはねー。あなたたちの姫さま、イエネンガさんのことが大好きなんだあ。」
かれら 「わあ~!」(目がさらに輝く。イエネンガ姫の物語はブルキナベは皆知っていて、敬愛される女性なのだなあと今回も痛感。)

素直なかわいい子どもたち。身なりもしっかりして学校の制服を着ていました。きっと裕福な家の子どもたちなのでしょう。事務所の女性に聞くと、ワガドゥグのテレビでも、ナルトや鬼滅の刃のアニメが放映されているそうです。かれらは、日本の国がどこにあるのかわからなくても、ナルトやキメツの漫画が日本からのものだと知っていたことになんだかうれしくなりました。
勉強がんばんなさいね、はーい、と言って手を振ってお別れしました。
子どもたちは、これから登校なのでしょう。
こんな他愛もないやり取りを楽しめるのもあとわずかです。

10日前にワガドゥグでクーデターが起こって軍が政権を握り、早くもテロリスト討伐に乗り出したと聞きます。国民を守るために、国内にはびこるテロリストたちを全滅させるという目標を持って軍のリーダー、サンダオゴ将校は実行を始めたようです。
その目標を達成したら、かれは身を引いて、政府の長は民主的に選挙で選ばれるだろう、とはわたしの周りのブルキナファソの人たちの見解です。本当にそういうシナリオで進んでいけばいいのですが。


国の将来は、子供たちの手にゆだねられます。
国の健全な発展のために必要なものは、しっかりした学校教育だと思うし、この国人たちも認めるところでしょう。
政権が安定して、国民の暮らしが安定してこそ、子どもたちの精神は落ち着き、良い教育を与えることができます。
昨日出会った子どもたちが、そしてすべてのブルキナファソの子どもたちがしっかりした環境に守られて成長していきますように。
子どもは地球の宝物です。

2022年2月1日火曜日

ワガドゥグの乾季のバオバブの木たち

 


これは、ワガドゥグ中心部幹線道路沿いに立つバオバブの木です。
ブルキナファソのバオバブはどれもこんなタイプのもので、わたしたちがイメージするマダガスカルの巨大バオバブのような異様に太い幹を持っていません。


12月から気温が下がって乾季が進むと、上に載せた写真のバオバブのように葉を落として、どのバオバブの木も裸木だから、すぐに町なかでバオバブの木を見つけることができます。
びっくりするくらい、結構な数のバオバブの木を発見します。

バオバブの葉っぱはブルキナファソの料理によく使われるし、バオバブオイルも肌に良いと聞きます。わたしも愛用しています。「おサルのパン~pain de singe」と言われる硬くて大きな実の果肉をくり抜いてジュースにしたり。粉にして食べたり、ブルキナファソの人たちはバオバブの木を一本丸ごと楽しんでいるなあと痛感します。


ゴルフ場のバオバブの木(2022.1.8.)

道路沿いに立つ大きなバオバブの木(2022.1.26.)

ワガ2000タワー近くの空き地に立つバオバブの木(2022.1.30)

ゴルフ場に向かい途中で見つけたバオバブの木(2021.12.25)



最後の写真のみ、昨年12月に撮った写真です。手前の裸木がバオバブの木です。まだバオバブの実(pain de singe)がいくつか名残惜し気にぶら下がっていました。

わたしが2020年に種から植えたバオバブの木たち。
10粒の種を植えて、芽を出した4本のバオバブの木たち。
わたしが日本に帰っている1年半の間、事務所のベランダで事務所のジナボさんが育ててくれたバオバブ4兄弟たちもブルキナファソで生まれて3年が経ち、わたしたちがこの地を離れるにあたり、それぞれ、ここの友人たちに喜んでもらわれて行きました。
ブルキナファソの地に根を張って大きく大きく育っていくバオバブの姿を、わたしはずっと日本で想像しながら楽しもうと思っています。

2022年1月31日月曜日

さよなら、ワガドゥグの大たらい

 


わたしたちの足かけ3年のワガドゥグ暮らしは、バスタブの無い生活でした。
ときどき、無性に日本の湯船が恋しくなりました。
考えに考えた末にたどり着いた解決策は。
できるだけ大きい、深さのある”たらい”を探すことでした。
何件も、何件も金物屋を訪ね、ちょっとこじゃれた店から、地元のよろずやっぽい店構えのところまで。友人に聞いては、ワガドゥグ市内、いたるところまで車を走らせて訪ね歩きました。
そして見つけたのが、上の写真の緑のプラスティック製の大たらいでした。
たて膝ついてもいいから、すっぽりと体が湯に浸かるサイズのものを、という一心で探し回りました。
そして、この容積100リットルのものを自宅アパートに持ち帰ったのでした。




大たらいのふち上に100までの目盛りが見えます。
シャワー室の横にこの大たらいを置いて、熱めの湯を張って、横で頭と体を洗って、ドボンとたらいに身を沈めたときの幸福感ったらありませんでした!

たしかに、体を縮こまらせて入らなきゃならなかったけど。それでも、幸せ感たっぷり。からだじゅうが温まって心がゆったりほぐれるのでした。


あれだけ苦労して探しまくった大たらいだったのに、夫は、ベナンへ車を移動するという任務を持って出発するプロジェクトの運転手のところに(彼の出発前に)譲ることにしたと言ってきました。(勝手に決める夫に怒りましたが、それはもう毎度のこと。しっかし悲しかったな。)
1月22日で入り納めだと夫から言い渡されたのでした。
わたしたちのワガドゥグ生活はまだ2週間以上あるというのに!、です。

わたしは、前日の21日から濃厚接触者(夫のコロナ!)の身分で2度目の発熱で寝込んでいたところでした。
でも!!!
最後に、このみどりの大たらいに入りたい!!!
入りながらたらいにお別れを言いたい!!!!!
その一心で、湯を張ってたらいに身を沈めてさよならを言いました。
そして、リビングの明るいところに持ってきて、最後の記念撮影、パシャリ!

※ 余談ですが、その後のわたし・・・。翌日23日に38度の発熱で再ダウン。クーデター発生直前の不穏な雰囲気漂う町なかをコロナの疑い濃厚、ということで車で病院に行ったのでした。デング熱もマラリアもコロナ抗原検査も陰性で拍子抜けしましたが、クーデター発生後の自宅待機期間中、ずっとわたしは床に臥せってゴホゴホと咳をしまくっていました。





はい、記念撮影です。
どれだけ、わたしはこのたらいで救われたことか・・・。
1月22日に運転手の家にもらわれていった大たらい。
さようなら。
ありがとうー!!!!!

2022年1月30日日曜日

今年の初いちご

 


1月28日。事務所の帰りにいつもの木の下の八百屋のマダムのところへ行きました。
久しぶりの八百屋さんです。


1月22日にデモの予告で外出禁止。23日夕方、軍の一部がカボレ大統領を拘束し、翌2日早朝クーデター発生が発表されました。24日、25日と日本人は自宅待機になり、飛行機はキャンセルとなり、国境も封鎖されました。その後、28日のワガドゥグ発のエアフランスから運行再開し、国境も食糧輸送車のみ入国許可という情報です。今週いっぱいは就業時間が短縮されて、少し不安定な状況でしたが、庶民の暮らしの面では少しずつ平常に戻っているようです。


さて、そんな中、しばらく外の空気を吸えなかったな~。八百屋のおばちゃんとこに行ってみようか。

そうしたら、たくさんの果物の中にいちご発見!




いよいよ、いちごの季節到来です。
今年のいちごは、大粒になってる?
品種改良ののたまものかー!、とか勝手に興奮してしまいました。


ここでは、他の店より値段も安め設定で、1kg2000fで買ってきました。
そっと他のいちごを傷つけないように、自分で選んで八百屋のお姉さんが秤で測ってくれて、袋詰めしてくれました。

写真も撮っていいよー。うれしい思い出写真になりました。





さっそく帰宅して、ヘタ取って洗っていただきました。
なんと甘い!
あまおう、顔負け。
(粒が不揃いなのは勘弁してください。)



押しつぶされずに、しっかり新鮮ないちごのまま、わたしたちの口に入りました。
ああ、幸せ~!
ワガドゥグで、あと何回、いちごを楽しめるかな。

2022年1月20日木曜日

タンジュロウの季節になりました

 


一年を通して果物が豊富なアフリカ。
月を追って月替わりメニューのように、道端で売られる果物が変わっていくのが楽しみの人です。
(忘れないために書き留めておきましょう。KAKIも10月11月頃、道端の果物屋台で見かけていました。日本の柿です。ちょっと熟れすぎていたし高くて買いませんでしたが、聞くと、モロッコ辺りから運ばれてくるそうです。ブルキナファソでは採れないのかと訊くと、ここのほとんどの人たちKAKIのことを知らないから、木を植えないのだろうよ、とのおばちゃんのコメントでした。柿は種を植えてから収穫までに8年かかりますもんね。)


ワガドゥグでは、スイカの季節が終わって、柑橘類のタンジュロウの季節に入りました。
道端のおばちゃんたちの屋台に載ってタンジュロウがたくさん売られています。
皮もまあまあ柔らかく、日本のみかんに似ています。といっても、みかんより、皮も果実の小袋もがっちりしているので、皮ごとくし形に切って食べています。
見た目もちょっと小ぶりのみかんっぽいでしょ。

夫がコロナでダウンしているときに、このタンジュロウと小ぶりのリンゴがのど越しに優しくて心地良かったのでしょう、デザートにつけると夫はぺろりと平らげていました。



りんご6個とタンジュロウ4個。道端のおばちゃんから買うと、合わせて1500f(約300円)です。

タンジュロウ、っていうと、日本人の男性の名前っぽい~丹寿郎とか?!~ですか・・・。
たんじゅろうさーん、ありがとうございました。

それから、この2,3日で町なかで苺がまた売られ始めたようです。ワガドゥグ郊外の農園から産地直送でバイクに乗って夕方に届けてくれていたイチゴ栽培のおじちゃんに久しぶりに今日電話してみました。かれが運んでくる苺のほうが傷んでいなくてより新鮮なのです。
あと一週間待ってくれ、そうしたら美味しいのを届けるよ、とのことです。

苺の季節もまた楽しみです。

2022年1月17日月曜日

夫の新型コロナ感染から1週間経過

 夫が先週の土曜日の昼前に発熱してから、1週間が経ちました。


自宅と同じ地区にある病院に行ったのは土曜日の午後でしたが、診療を受けることができたものの、夫の受けた検査はデング熱とマラリアの検査のみ。解熱剤と抗生剤、副腎皮質ホルモン剤(?)、そしてビタミン剤の処方せんをもらって、薬を買って夫は帰ってきました。
デング熱とマラリアの検査で陰性だと判定されたのは夜になってからのことでした。

わたしはこの国の医療事情を憂え、不安になってしまいました。
この国の医師たちの頭にさえも、一般庶民と同じように、"covid-19",新型コロナというウィルス疾患が存在していないのか、と絶望したのです。
そして、翌日、PCR検査を受けられる施設へ行って、新型コロナに罹患したということを確実にするべきだと思いました。もちろん、土曜日の高熱発症後に、自宅で行ったコロナ抗原簡易検査(鼻の粘液採取の型)ではっきり陽性と出ていたのですが。
夫が受けたPCR検査でもやはり新型コロナ陽性でした。(コロナ抗原簡易検査のほうが正確な結果を得られると言われているそうです。)

ブルキナファソの病院の入院施設は衛生面で信用度が低いと考えて、自宅療養にしようと決めました。
幸いにも、同居者はわたしだけで、完全隔離できるトイレ、シャワー付きの部屋がもう一部屋あったのです。

シンガポールに赴任中の息子から、シンガポールでは新型コロナウィルス罹患者は自宅療養で過ごすのが当たり前だという言葉が背中を押しました。そしてすぐに、息子が自宅療養時の家族の過ごし方、というファイルを送ってくれました。
それからすぐ、他国に駐在するわたしたち夫婦の友人の医師にメイルで問い合わせました。
友人の医師の提案ですぐにワッツアップで繋がり、画面を通してアドバイスをもらえたのはものすごい安心感をもらえました。


新型コロナは、治療薬が確定していないと考えて、発熱したら解熱剤をのむこと。同じ解熱剤をのむこと。
水分を十分すぎるくらい取ること。ポカリスウェットのようなものが良い。
肺のレントゲン、CT撮影を行える病院を探すこと。
緊急時に備えて、酸素吸入の設備のある病院は必須。
緊急輸送時にスムーズにいくために、夫の加入する保険会社に直接電話して、逐一状況を知らせておくこと。保険会社のほうで現地の信頼のおける病院を探してくれるはずだとも友人の医師から言われました。

熱は日曜日、月曜日と解熱剤を処方通りにのんでいたら、36℃台に落ち着きました。でも、解熱剤を止めるとすぐに38℃台に上昇しました。さらに火曜日夜に指で測る酸素飽和度が93%になっていました。その数値を友人の医師の伝えるとすぐに病院に行くようにと指示されました。(酸素飽和度の正常値は96%以上。右手人差しに挟んで30秒ほど待ち、一番良い数値を記録する。一般的に94%以下になると酸素投与が必要だとのことです。)
その間、もたもたしていたわたしは病院探しも保険会社に連絡することもしていませんでした。


こちらの日本人の友人に尋ねると、CMI病院が良いのではないかと電話番号を教えてくれ、友人の連絡で病院に行くことができました。夫の運転手も夜にもかかわらず、バイクを飛ばして我が家まで来てくれました。病院では医師がロビーまで出てきてくれてスムーズに診察室に通され、問診を受けました。
夫は疲れ切っていました。医師はてきぱきと処置をし、診察室は明るく衛生的で、機械も新しいものが入っています。カルテも電子カルテのシステムなっていました。病院では体温38℃、酸素飽和度96%。
病室は満床だけどICU室にベッドを入れたから、一晩、点滴を受けるようにと言われ、明朝8時に夫を迎えに来るようにと言われて、わたしだけ帰宅したのがもう夜中になっていました。
それから、友人の医師、こちらの友人に報告し就寝。翌朝、8時に病院に着いたのですが、夫は2本目の点滴に入っていました。
昨夜とは違う医師が夫の容態を説明してくれて、数値的には問題ないが、CT撮影で肺の様子を見ておきましょうということで病院の救急車に乗せられて(CMI病院内にはレントゲン、CT撮影の機械は置いてなく、別の場所に撮影室があった。)、点滴を受けながら移動。わたしも同乗するように言われて車で7,8分の撮影室まで運ばれました。救急車もしっかりして、とても衛生的で安心しました。
夫の入院は24時間続いて、最後の点滴が終わって帰宅したのは、入院翌日の夜になっていました。

その間、わたしは病院の待合室で夫を待っている間に頭痛が激しくなって自宅に戻って少しベッドで休養を取ったのですが、わたしまで発熱して、低体温症のわたしが数年ぶりに38℃を超えていました。ためらわずに病院に電話したら、すぐに来院するようにと言われたのです。病室では体温37.8℃。酸素飽和度97%。わたしもすぐに検査室でデング熱、マラリア、コロナ抗原簡易検査の3種類の検査を受けました。ああこの病院では、コロナと言う病気の存在を認めてくれている!、と大げさでなく、心から安心したのでした。
2,3時間で結果が出て、すべて陰性と言われたときは拍子抜けでした。
発熱したときは、やっぱりわたしも新型コロナウィルスに感染していたのだと覚悟したのですが・・・。

入院2日目の夕方には夫のCTスキャンの結果が出ていてデータを画像とCDでもらえました。医師の説明では。肺に10パーセントのダメージはあるが問題はないという説明でした。2日後にまた二人で診察に来るようにと医師に言われ、点滴を終えた夫と共に夜遅くに帰宅が許されました。

帰宅したときはお互いにくたくたで、そのまま朝まで熟睡。不思議なことに、翌日はわたしは平熱に戻っていたのです。あの発熱はいったい何だったのでしょう。
帰宅途中に車内から見えたクルバ地区の大きな電灯クリスマスツリーのイルミネーションがわたしの心をほぐしてくれました。病院で緊張しまくっていたのでした。




夫は、点滴を受けたことで、体力がかなり戻っていて、寝室にテーブルを持ち込んでパソコンを置いて、早速仕事を始めていました。プロジェクトの工期も終了間近で仕事山積なのはわかりますが、発熱すると解熱剤をのんで寝て、熱が下がるとまたパソコンに向かう、の繰り返しだったように思います。

そんなどたばたした夫の発症から5日間が過ぎ、14日、金曜日に再度CMI病院へ。
診察した医師は毎回違っていましたが、パソコンに保存されたカルテでわたしたちの状態はしっかり把握されていて、それにも安心しました。二人とも、体温、酸素飽和度、血圧を測り、胸の音を確認し、問診のあと、その日も二人でコロナ抗原検査を受けました。
わたしは陰性。夫は、相変わらず陽性でした。
この日の医師の説明がいちばんていねいで、夫のCTスキャンの画像ではダメージは10%未満(!)と思われ、問題は全くなし。胸の音もきれいだ、とのこと。発熱したら解熱剤を服用すること。また、異状を感じたらすぐに病院の緊急コールに連絡して来院のこと、ここは24時間、医師が対応しているという指示をもらって安心しました。
次の来院は18日(火曜日)と言うことで帰宅したのでした。
夫の発症から10日間は病状の急変に気を付けること、わたしの感染も十分に考慮して注意して過ごすことを、友人の日本人医師からもアドバイスを受けました。

CMI病院に変えてよかった点は、
・電子カルテになっているから情報がスムーズに他の医師に伝わる。
・発熱して、即座にマラリア、デング熱、一般検査の血液検査、そして、鼻の粘膜を採取してコロナ抗原検査をしてくれ、一般血液検査以外は2時間ほどですぐに結果が分かる。
・24時間対応で医師が常駐している。
・酸素ボンベがたくさん保管されて、呼吸器設備がある。
・レントゲン撮影、CIスキャンの設備がある。(検査必要と判断されれば、病院の設備の整った救急車で搬送してくれる。)

建物は、普通の大きな立派な家屋といった造りで、病室が2階に5室しかなく、受け入れ入院患者数は7人だと院内の病院案内に書かれていました。(小規模の入院設備だから、病床が満室だというのは理解できますが、実際にコロナ患者が多いという話でした。)
門扉を入ったところからとても清潔で、医師や看護師、検査技師はもちろん、受付会計の人たちもとても親切でした。
夫が入院した24時間で出された食事も美味しかったそうです。

2年前、わたしが参加していたワガドゥグ国際女性の会(CLIF)で、暮らしに必要な市内案内ツアーがあったとき、ここの病院を見学したことを思い出します。説明はよく聞き取れなかったけど、この病院はもともとフランス大使館付属の医療施設だったのが始まりで、今は一般にも開放していると言っていたような・・・です。
だから、フランス人らしい人を多く見かけました。また、アフリカの人でも富裕層でないとこの病院を利用できないのだろうと思いました。わたしたち外国人は海外障害保険に加入していれば安心ですが、ここに庶民の抱える医療事情を感じてしまいました。


アフリカなどで、十分な医療が期待できない国に滞在していて病気にかかったとき、まずは安心して診療を任せられる医療機関を見つけておくことと、信頼置ける友人関係を築いておくこと、できたら、日本人医師と繋がっておくこと、そして、海外医療傷害保険に加入しておくこと。また、体温計、酸素飽和度測定器の準備も必要なだあと痛感しました。
これらのことはとても大切なことだと思います。
実際に、この隔離期間中、必要不可欠な酸素飽和度の測定器を貸していただいたり(わたしたちは持ってきていなかった)、差し入れをいただいたり、多くのことで友人たちに助けられました。
そして、夫の運転手には夜遅くに自宅に来てもらったり、帰宅が夜中になったり、いやな顔一つせずに緊急時にはいつでも電話してくれと言ってくれました。


そして、現地の一般の医療機関にかかる場合は、それぞれの国民性、文化の違いも考えてしっかり自己管理で判断するべきだと感じます。
一般庶民がかかる病院では、発熱したことで受ける検査は、多分、マラリアとデング熱だけだと思われます。実際に、その二つの検査をして二つとも陰性が確認されれば、単なる風邪として処方箋が出されたと聞きました。幸いにも病状が回復して熱が下がれば、もう自由に動き回れるということです。濃厚接触者という概念も持ち合わせていないと思います。
コロナの症状が軽症で済んでも、ウィルスを持ったまま移動すれば、コロナウイルスは拡散していきます。

ここの人たちは町なかで未だにマスクをしている人は皆無です。
(もちろん、夫たちのプロジェクトの事務所内ではマスク着用を義務付けています。)
この国の多くの人々は、コロナはもう終わった、この国にコロナは存在しないと考えているように感じます。
コロナ、コロナとなぜそんなに騒ぐんだ?単なるインフルエンザや風邪と同じではないか、と豪語するブルキナファソの男性もいました。
これから、ブルキナファソは乾季がさらに進んで、サハラ砂漠からの風が吹き荒れて砂漠の粉塵が町じゅうを覆ってきます。
わたしが最初に過ごした3月の1か月間、喉をやられ、ぜんそくのような咳が止まらずに全身が筋肉痛になってしまったことを思い出します。
喉や気管支をやられる気候に移っていきます。


コロナの存在を否定するブルキナファソの人たちは、援助で入ってきたコロナワクチンなのに、ほとんどの庶民が未接種だということです。
アフリカ全体が同じような状況にあるとは断定できません。

でも、わたしは、これからのアフリカのコロナ感染状況を憂えてしまうのでした。