2021年12月27日月曜日

28年前のワガドゥグのサンタクロース

 わたしがワガドゥグ大聖堂横で売られるイエス様の降誕小屋の写真を知人に送ったら、懐かしいなあと言って、こんな話をメイルで送ってくれました。


”緑のサヘル”という団体に所属するSさんが、ワガドゥグで暮らしていた時のこと。
大聖堂の近くに海外配送会社があったので、たまに大聖堂に行っていたのだそうです。
そして、1993年に大聖堂の近くで、サンタクロースに会ったそうです。
証拠写真です、と送ってくれた写真です。Sさんの了解を得てここに転載します。
(1993年12月21日の日付が入っています。)

このサンタさんはブルキナファソの人で、かれ自身、そんなに裕福な感じではなかったとのこと。そのサンタさんが、通りを歩きながら子どもたちにプレゼントを渡していたのだそうです。彼が身に着けているコスチュームも自前のようだった、と。


不思議に思ったSさん。サンタさんに話しかけたのだそうです。
すると、かれは、ワガドゥグ在住の普通の一般庶民だったそうです。
ただ子どもたちを喜ばせたいという思いから、一年間お金を貯めて、クリスマスのころになるとサンタさんになって町を行く子どもたちにプレゼントを配って歩いているのだと話してくれたというのです。
Sさんからのメイルは、こう締めくくられていました。
”これぞ本当のサンタクロースだ、と大いに感激しました。ブルキナファソは本当に素敵な国です。”

夫の事務所の人たちに聞くと、今は外を歩いてプレゼントを配っていると、子どもたちに囲まれてしまうだろうね、と。でも、教会の敷地内でクリスマスの頃、サンタクロースに扮してプレゼントを配っている人は確かにいるということでした。
そして、熱心なクリスチャンの運転手さんは、このサンタクロースも毎年お金を貯めて子どもたちにプレゼントし続けることで、幸せをもらっていたのだろうなあと言いました。
プレゼントをもらった子どもたちは、このサンタクロースのことを大人になった今でも思い出すのでしょうね、とも話していました。

ワガドゥグ大聖堂は、地面の土の色と一体化するような建物で荘厳な雰囲気を辺りに放っているようです。わたしは、学生時代を過ごした長崎の浦上天主堂と重ねて見てしまうのでした。

このちょっと心温まる話は、わたしを幸せにしてくれたのでした。だから、わたしも皆さんにおすそ分けです。

2021年12月25日土曜日

Joyeux Noel ! ~ ワガドゥグから世界の平和を祈って

 


Joyeux Noel !
世界じゅうの皆が幸せな12月24日を過ごせていますように。

以前にも書いたかもしれませんが、ブルキナファソの人たちはそれぞれの持つ宗教にとても寛大だなあと感じます。
イスラム教のお祭りの時は、イスラム教徒の家に集まってお祝いをし、クリスマスの時は、キリスト教徒の家に集まってお祝いをすると聞いたときは、感動しました。世界で神は一人だけ。神に近づこうとする方法が異なるだけであって、皆が祈る神様は一つ、同じなんだよ、と夫の事務所の女性から聞いたとき、涙が出そうになりました。
なんで、こんな簡単なことを世界に一部の人たちは気が付かないのだろう!

わたしはキリスト教徒ではないけれど、かれらが示す、寛大な気持ちで世界平和について祈る日にしようと思います。

2年前に行ったワガドゥグ大聖堂横のイエス降誕小屋を売る露店が立ち並ぶ光景を、わたしはやっぱりもう一度見たくなって、事務所の女性と敬虔なキリスト教徒の運転手に同行してもらってクリスマスの3日前に行ってきました。



石膏で作った降誕小屋や人形たち、そして、イエス様やマリア様の柄のアフリカンプリントの布地やツリーも並んでいて、やっぱり圧巻でした。
お客さんは少なかったです。同行してくれた女性が、コロナ禍で外国人が本国に帰国してしまってこの国の経済が滞ってクリスマス用品を買う余裕がないということと、外国人のお客さんがいなくなったから、というのが理由だというのでした。

わたしは、駐車場から車を降りるときにポケットに2500フランと携帯電話だけをもって露店の中に入っていきました。大きな降誕小屋は買えないけど、小ぶりのマリア様や赤ちゃんイエス様、ヨセフ様の人形を選びたかったのです。
ワガドゥグ大聖堂横の露店でみかけた人形は、何年も前に訪ねた南仏で土をこねて作った素朴なサントン人形のようだったはず、と2年前を思い出して行ったのですが、わたしの想像していたものとはちょっと違っていました。
こちらは、石膏を固めたもので、色を塗った人形はなんとも粗末なものでした。
冒頭の写真のように一部だけを色塗りした人形もあったのだけど、ちょっと大きめだし・・・。
最後に迷いに迷って、顔かたちの良いマリア様、赤ちゃんイエス様、ヨセフ様、羊の4体を選んだら、クリスマスネクタイのムッシュは8000フラン!、と言ってきました。
えー、高い!わたしは2000フランにしてと頼んだのですが、話にならないという顔をされたのでした。わたしは、素直に、ポケットに手を突っ込んで、ごめん、わたし今日2500フランしか持ってきてないのよ。
ムッシュから、アンタはブルキナベみたいだ、と言われて大笑いされたあと、あっさりいいよ、持っていきな、と言ってくれたのでした。傍で見守っていた秘書のお姉さんも運転手も笑っています。現地の人は果たしていくらで買うのでしょう。
事務所のお姉さんはイスラム教徒だから買ったことないからわからない、というし、運転手は、お姉さんが作ってくれるからやっぱり買ったことがないのだそうです。
写真撮っていいかと許可をもらってバシャバシャ撮影して、ついでに、ムッシュと記念撮影に応じてもらって、大満足したのでした。

降誕小屋の露店ムッシュと。


ムッシュが手に持っているビニル袋の中身が私が入手した4体の人形たち。
帰宅して早速部屋に飾り、クリスマスを迎える用意をしたのでした。



ワガドゥグの大切な思い出になるでしょう。

2021年12月20日月曜日

クリスマス間近のワガドゥグの町から

 


今日は12月20日です。
ワガドゥグの人たちは、日常生活の中でキリスト教徒もイスラム教徒も一緒になってクリスマスを楽しみに待っているようです。
今年も建ちました。町の中心部の交差点のロータリーに大きな電気のクリスマスツリーがお目見えです。夜に一度も通りかかったことがないので、どんな美しいイルミネーションなのか想像するだけです。

そして、ワガドゥグの大聖堂そばでは、今年もイエス様の降誕小屋がうず高く積まれて売られています。


降誕小屋の思い出はたくさんあります。中央アフリカのバンギでは素朴な藁小屋で子どもたちも小さかったから町で一つ選んで家に飾ってクリスマスを祝ったし、キンシャサではとても繊細で美しい木工細工のものをシスターたちが営むお御堂の敷地内のカトリック教徒たちの小物を売るブティックで選んで家に飾りました。夫婦二人の暮らしにぴったりのイエス様降誕の木工品で、ささやかにクリスマスを祝いました。
ワガドゥグは土粘土で固めた降誕小屋と人形たちです。がっしりしているのでもう買うことはありません。そうそう、南仏で買った泥人形と雰囲気が似ています。今年は、人形だけでも買いに行きたいな。

ぴったり2年前、2019.12.20.にやはりワガドゥグ大聖堂近くで撮った写真です。人形は、南仏の泥人形と同じ雰囲気です。



そして、町の道路端ではクリスマスツリーも売られていました。
本物のもみの木ではないのがちょっと残念です。



車の中からの撮影で見づらいですが、こんな感じです。

わたしが友人とよくお茶に行くカフェ前には大きなビニル製のサンタクロース人形が置かれて風に揺れています。
さらにもうちょっと先に行くとワガ2000のイスラム大寺院があるのですが、その大寺院の斜め前の道路端にもクリスマスツリーが売られているという不思議な光景が見られました。


写真の右端に高くそびえる塔がイスラム大寺院に立つ3本のうちの左端の一本です。

ワガ2000近くの行きつけのショコラティエ、”Chez chef Andre”の店内も降誕小屋風の飾りつけの中にクリスマスギフト用のラッピングのチョコレートたちが並び、お客さんたちを楽しませてくれます。
キンシャサにいたときのように商業用の目立った飾り付けが町なかに見つけることはありませんが、ワガドゥグの人たちのクリスマスを待ちわびるささやかな楽しみがほんのり広がる光景です。

2021年12月18日土曜日

ブルキナファソのバオバブの実~ ”Le pain de singe” おさるのパン!

 


先日、プロジェクトの運転手さんがわたしに、プレゼントだよ!、と事務所まで持ってきてくれた一つのバオバブの実です。
こちらでは、”pain de singe”、(おさるのパン)と呼ばれています。

バオバブの実の殻はとても硬いので、運転手さんが金づちでエイヤーっと割ってくれました。




バリバリバリーっと出てきたのは。



ほぼ乾燥した白い果肉です。繊維がたっぷり。種も果肉の中に散らばって入っているの見えます。
果肉をほじくってみたら。



上から、カチカチの硬い殻。
そして、果肉じゅうに張り巡らされていた繊維。
そして、種のぎっしり詰まった白い果肉。です。

帰国前まで我が家のコックさんだったセイドゥおじさんがしていたことを思い出して、まず、一晩、いちばん下の果肉をそのまま浸水しました。
そして、翌日。
水に入れたまま、グリグリかき回して種を取り出し(けっこう簡単に取れた!)、果肉だけになったのを浸けた水と一緒に数分間煮て、砂糖を控えめに入れて混ぜ、さっと混ぜてから火からおろします。
繊維や殻の粉が混じっていたので、粗いざるで濾します。
そして出来上がったバオバブジュースです。



確か、セイドゥおじさんは外に置いて発酵させる、とか言っていたなあ。
セイドゥおじさんの作るバオバブジュースは、”初恋の味(カルピスぅ・・)+米麹から作った甘酒”だったけど、わたしのは、まだ「コク」不足、ってとこ。
甘酒のようにどろっとしています。
外に出して置く、という勇気はないから、しばらく食卓テーブルの上に放置してみましょう。
加えた水の分量によるのでしょうが、今回は1ℓほどのバオバブジュースが出来上がりました。

種は、上のバオバブの実一個の中に234個入っていました。(暇人です。)
セイドゥおじさんが買ってくるバオバブの実から採れた種より、若干サイズ大きめです。



一見、大きな小豆のようですが、種の表面はざらついています。
ここの人たちは、バオバブの種から発芽させるのは難しいと言います。
果たして、この種からいったいどれだけがバオバブの木になるのでしょうね。
(ちなみに2年前にわたしが植えた10粒の種のうち4つが発芽し、発芽率が高いとほめられましたっけ。)

2021年12月17日金曜日

ブルキナべの温かいあいさつの言葉

 


これは、フランスのアルプス地方に住む娘の義母が、わたしたちがワガドゥグで暮らすことになったときに贈ってくれた陶器製の玄関プレートです。最初の滞在中はずっとわたしたちのアパートの玄関に取り付けていました。
エーデルワイスの花と優しい色使いのプレートが帰宅の度にわたしを和ませてくれたものです。そして、わたしたちがコロナの影響で日本に戻り、わたしたちが留守のままアパートを引き払うことになったときにプレートは取り外されるのを忘れられて、そのまま残されました。
そして、こちらに戻ってきて、また同じアパートの今度は4階に住むことになったとき、以前の2階の玄関前に行ってみました。でも、もうプレートはありませんでした。
ああ、あのプレートにもう二度と会えることはなくなったなあ。
あきらめて1か月ほど過ぎたときです。以前から変わらずに働く門番のアジーズおじさんと立ち話になり、そういえば~とプレートのことを聞いてみました。
もしかしたら、こんな形だったかい?、と地面に彼が描いた図はハート型だったのです!
にんまり笑って、ちょっと探してみるから待ってなさい。
ものの5分もしないでかれはこのプレートをもって現れました。きれいにティッシュでくるまれてビニール袋に入れられています。なんだぁ、かれが持ってたのか。
お金くれぃと言われましたが、そこはアジーズとわたしの間柄。日本からの飴玉10個とメルシーの言葉で取引は終わったのでした。
かれがプレートを取り外して1年半近くの間、大切に保管していたくれたからこそ再会できたプレートだった、心から感謝しました。

さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。
ここの人たち、ブルキナベたちは、「ようこそ」、とか「おかえりなさい」、という場面で必ず聞かれる言葉が、「Bonne Arivee.~ボンナリべー」です。直訳すると、「良い到着を」となりますが、良く帰ってきましたねえ、という感じで、お疲れさまでしたという慰労の意味合いまで含まれていると感じる、とっても温かい響きです。決して、フランス語の辞書には載っていないフレーズ。バンギでもキンシャサでも決して聞くことのなかった表現です。昔、サヘル地帯の地域で、自分の村に帰り着くのがどんなに大変なことだったのか、と想像すると、この言葉に含まれる深い愛情を感じてしまいます。
わたしは、この言葉の持つ響きが大好きです。
聞けば、この「Bonne arrivee~ボンナリベー」は、ブルキナファソの最大部族モシ族の言語、モレ語のあいさつの言葉、「kind kinde~ケンケンデ」に匹敵する言葉なのだそうです。「よくご無事で帰ってこられた。」と苦労の多かった道のりをねぎらう言葉をこの国の人たちは持っていたのです。モレ語だけではなく、他の部族にも同じ意味合いの言葉があると、秘書の女性はきっぱりと言いました。


また、あいさつの時に、元気ですか?、と聞かれての返礼の時に必ず添えられる言葉があります。
Oui, ca va bien. Merci, et vous? 

という返礼が普通だと思うのですが、ブルキナベたちは、「et vous?~エ・ヴ?」(そして、あなたは?)とは言わずに「chez vous?~シェ・ヴ?」と返してくるのです。
「シェ・ヴ?」
あなたン家の皆はいかがかい?、あなたのとこのご家族はいかが?、のような感じです。
目の前のあなただけではなく、家族皆の様子をたずねているのです。
最初聞いたとき、なんと優しい思いやりのあるつけ添えだろうと感心しました。
夫の事務所の秘書の女性に聞くと、当たり前のように、だって家族皆のことをたずねるのが当たり前だと思うのだけど、とのことです。

Bon(ne)が付くフレーズは、フランス語でよく耳にします。
たとえば。
Bon voyage. Bon courage.です。
良い旅を。がんばって。
Bonne soiree.もあります。
良い夕べをね。夕方に分かれるとき、夜に外出する人に投げかけるあいさつです。
また、Bon travail. これはアフリカでは時々、耳にする言い回しです。フランス本国ではどうなのでしょう。お勉強をしっかり頑張るのよ、とか、しっかりお仕事してね、あるいはお仕事を頑張って、というときに使われているようです。
一昨日、仕立て屋のブティック(店内におしゃれな靴やかばんの商品も置いている)に行ったときに、初めて聞いたフレーズがありました。
「Bon marche~ボンマルシェ」
母が娘のためにクリスマスのプレゼントを選んでいたのでしょうか、二人で額を突き合わせて一生懸命にバッグを選んでいる光景に出会いました。バッグを買った母と幸せそうにバッグを抱きかかえる娘が店を出ていくときに、店主のマダムが母娘に投げかけたフレーズでした。
良い買い物を。
直訳ではそういった意味になるのでしょうが、良い買い物をしましたね、次も良い買い物ができますように、またのご来店を、という意味まで入っているのだとは秘書の女性の説明です。これまた良い響きの言い回しだなと感心しました。

それから、ここのモシ族では一日のうちで2つのあいさつの言葉を持っています。
①「Ney beogo~ネィビョーゴ」 これは、朝から昼12時半くらいまでのあいさつの言葉。
②「Ne zabre~ネザブレ」   これは、昼12時半以後に使われるあいさつの言葉です。

それでなのでしょうか。フランス語でかれらがあいさつを交わすとき、①に匹敵する言葉として、bonjour~ボンジュールと言い、②に匹敵するあいさつの言葉として、bonsoir~ボンソワールと使い分けています。
だから、ブルキナファソでは、まだ真昼間で陽は高いのに、「ボンソワール」とあいさつを交わすのです。このあいさつには、わたしは最初のころ戸惑ったものです。
お昼ご飯を食べ終わったとたんに、もう「ボンソワール」なのですから。
単純に辞書通りの意味だと、日本語でもう「こんばんわ~」とあいさつしているように感じられたのです。
わたしのブルキナベのフランス語の先生の話では、その昔、時計がなくて,時刻という概念がなかったころ、かれらの一日の進み方の目安となるのは太陽の位置だったというのです。日時計の感覚ですね。かれらは、野良仕事に出て、お日様が真上に来て、ちょっとでも高さが傾いてきたら、もう一日が終わろうとしているということで帰り支度に入っていたのかもしれません。
ボンジュールとボンソワール。男性ブルキナベがその言葉と共に、両方の掌を互い違いにして上下に合わせて軽く指を中に折って、一瞬立ち止まるようにしてあいさつをするときがあります。その挨拶の仕方に気品を感じるのです。さすがに高潔な人々のあいさつだなあ、と。

最後にもう一つ。
おやすみなさい。これは、フランス語では、「bonne nuit~ ボンニュイ」です。
モレ語では、「Wen na kond beogo~ウェナ コン ビョーゴ  」

ベッドに向かおうとする人に向かって、「神様が、わたしたちに明日を与えてくださいますように。」という意味を持っていると言います。戦があったり事故や病気があったりして、明日が来るのが当たり前ではなかった時代から人々に伝わる言い回しなのだなあと深く心に染み入ります。

そんな言葉やあいさつの言い回しにも、ブルキナファソ(アフリカ)の長い歴史の中で大切に育まれてきた文化があると感じます。そんな独特の文化を
これからも守っていってほしいと願います。


2021年12月14日火曜日

ワガドゥグの大きな木の下の野菜果物屋さん

 夫は本当に果物が好きで、それも不思議なことに美味しいものを選ぶ目利きです。
買うところは決まっていて、工事現場のタンソバ道路脇にある野菜果物屋さん2か所か、ワガ2000の肉屋斜め前の野菜果物屋かのどちらかです。
品ぞろえがよくて、サラダ菜やネギの新鮮なのが買えるのはワガ2000のほうでしょう。
大きな木の下の理路整然としたひな壇にきれいに商品を並べています。
下の写真は、昨日、ゴルフ帰りに寄ったときのものです。


写真には載っていませんが、お店の右端には、かごに入って麻袋の布で覆ったとてもみずみずしいサラダ菜や小口ネギも売られています。なんとカリフラワーも小ぶりではありますが、新鮮なものが買えます。
マダムの右手のところには大きな縦楕円の黄色いカボチャも見つけました。
ここのかぼちゃは煮つけには向きませんが、カボチャスープにするともうほっぺたが落ちんばかりの美味しさです。コロナ禍で帰国する前に我が家でコックさんをしていたセイドゥおじさんのカボチャスープは天下一品でした。
これだけの品ぞろえと新鮮な野菜、果物を見渡すと、やっぱり農業国、ブルキナファソだと感動します。
とはいえ、リンゴはチュニジア、モロッコからの輸入品だそうです。それでも(小ぶりですが)5個で1000F、ということは1個40円。とてもおいしいリンゴです。
特筆すべきは、ブルキナファソで初めて日本のような縞模様のスイカを見たということです。スイカは雨季明け後から旬に入るようです。そして、だんだんとワガドゥグ産のスイカは姿を消していき、ガーナからのスイカが入ってくるようになって、スイカの季節は終わりを迎えるのだと聞きます。あと2か月くらいでワガドゥグ産スイカは終わって、ガーナからスイカが入ってくるようになると言われ、値段は高くなるそうです。
ところで、縞模様のスイカは事務所の秘書の女性の話では、全てガーナ産だと言い張ります。でも、ここの木の下野菜店のマダムはどちらもブルキナファソ産だよと言っていました。
昨日聞いた値段は大玉一個が縞入り、縞なしとも1500Fだと言っていました。どっちが美味しいの?と聞くとどっちも美味しいよ、だそうです。
ちなみにスイカ右奥の黄色いカボチャも一玉1500Fとマダムから聞きました。



いつも美味しいスイカを選んで買ってくる秘書の女性は、縞なしスイカしか買ったことがないから、縞模様のスイカが美味しいかどうかわからない、とのこと。日本のような縞模様入りのスイカは品種改良されてまだ新参者なのでしょうか?
秘書の女性は、重くて、叩いてポン!と良い音がするのが美味しいスイカを選ぶコツだと言います。
実際にかのじょが選ぶスイカは全部大当たりです。


これは先週、かのじょが買ってきてくれて皆で食べたスイカです。果汁たっぷりで美味しいことこの上ありませんでした。無地のスイカでした。
中央アフリカのバンギでも、コンゴのキンシャサでも無地スイカしか見なかったし、買っても中身が真っ赤じゃないし、おいしくなかったことを覚えています。
パイナップルはいつでも見かける果物です。でも、ブルキナファソ産ではなくて、ある人はベナンからのものだとか、カメルーンからだとか言います。
ガーナ、ベナン、トーゴからは陸路で大型トラックが頻繁に行き交っているから、ブルキナファソ産のものだけではなく、隣国産の野菜果物も輸出入が盛んなのでしょう。

トマトも完熟でおいしいです。
つい先日、旬が終わったマクワウリも夫が選ぶと大当たりです。
昨日、ここの野菜果物屋で見つけて買ったマスクメロンも小ぶりでしたが、熟れてとても美味しかったです。
わたしは、熱帯フルーツが苦手なので、バナナ、パパイヤ、マンゴーは選びません。
バナナ、パパイヤは年中買えます。でも、マンゴーの季節は、3月、4月、5月に限定されます。
夫の言うには、オレンジとミカンの中間のような果物で皮をむきやすい”タンジュロー”という柑橘果物は絶品だということですが、6月、7月、8月が旬だということで残念ながら食べたことも見たこともありません。
年が明けると、苺の季節です。ワガドゥグ産の苺は日本の”あまおう”のように大ぶりではないけれど、甘さ美味しさから評価すると見劣りはしないと断言できます。


正面から見ると整然とした店構えですが、後ろに回るとご覧のような有様…。
ま、ご愛敬、ということで。
夫が言うには、「木の下野菜果物店」はワガドゥグでトップを行く新鮮さと品ぞろえだ、と太鼓判を押すのでした。

2021年12月11日土曜日

ファソダンファニ布でオーダーしたワンピース

 先月の終わり、ブルキナファソ独特の綿100%の織物、"Faso danfani"(ファソダンファニ)の布地を2パーニュ(pagne・40cm幅×6m×2p)分、わたしたち夫婦にとブルキナファソの知人、ジナボさんがプレゼントしてくれました。



とってもオシャレなかのじょがいつも織布をオーダーするというワガドゥグ郊外のアトリエに発注して待つこと3週間で届いたと言います。ファソダンファニでも厚手の織地です。良質ものである証拠は織幅が40cmの幅広ということで分かると聞きます。

夫と相談してワガドゥグで作ってもらおうということで、ジナボさんの行きつけの仕立て屋さんを紹介してもらいました。
以前、Tシャツに国布をアレンジしてもらったところが紳士用仕立て屋でした。
わたしは、数軒隣にある女性用の仕立て屋に案内されました。

こちらの写真左が紳士用仕立て屋の店主で右が工房内です。
店主はなかなか生真面目そうなムッシュで、職人はほかに3人いました。
店主が、夫の採寸をしてくれ、きっちり2日後に出来上がると約束しました。



女性用の仕立て屋に行ってみました。




上の左写真の右の恰幅の良いマダムが店主。いつもメジャーを首から下げて、大声で客の相談に乗っています。店は角地にあるので2方向の窓からの採光で、店内は明るく、3種類の布地、アフリカンプリント布、ファソダンファニ布、そしてボボ・デュラッソの染め布のココ・デュンダ(koko dunda)が棚に陳列され、店内右側面一面に配置されたガラス扉付きの棚には靴、サンダル、そしておしゃれな合皮バッグがきっちり飾られていました。バッグには金色文字で”Paris”と入っているし、”Dior”模様のサンダルもあります。
どこからのものなの?、と訊くと、ほとんどがロメ(トーゴの首都)やコトヌ(ベナンの首都)からのものだけど、ビーズのバッグはトルコ、ドバイから来ているのだとか。ジナボさんに言わせると、中国製よ、ということらしいです。
店内にはミシンが一台だけで、その奥にカーテンが垂れた大鏡のある試着スペースがあるのみです。アトリエは近くに別にあるのよ、ここは客の応対スペースだけね。太っちょマダムが大声を張り上げんばかりに説明してくれました。
前もって、ジナボさんがネットで探してくれたワンピース写真数枚から選んだもののコピーを見せて、採寸してくれて、はい1週間後に出来上がるわよ!
またまた大声で請け負ってくれました。

見事に、夫がオーダーしたシャツも、わたしのワンピースも約束通りに出来上がっていました。

夫のも、わたしのも体形に余裕をもって出来上がっていて、サイズぴったりだったのにも満足でしたが、やっぱり日本の仕立て屋さんのように縫い代の始末までは目が行き届いていないのは仕方ない。目をつぶることにしましょう。ファソダンファニは綿100%の太めの糸で織られているから、折り目が粗い分、縫い代の始末も大変なのでしょう。



ファソダンファニの布地を横に使っていて、端布のブルーを生かしてアクセントにしていました。試着してみると重い、重い。
スポーツ選手のトレーニング用の鉛入りのシャツか!!!、と思うほどでした。



普段履きの靴がぼろくて失礼。
ほ~ら、わたしの腕はいかがなものよ~!、と言わんばかりのマダムの笑顔。
この日も、メジャーを首にぶら下げていました。

今日はこのワンピースに白のベルトを付けて事務所に着て来ました。
夫に、ファソダンファニのペアルックで行こうか?!、と提案したら、速攻拒否されましたけど。
何人もの人から、おおー、今日のマダムはブルキナベだねえ、と笑顔で声をかけられたのでした。
ファソダンファニの布地はブルキナベ、ブルキナファソの人の誇りなのです。
重さも、全く気にならなくなりました。 
それよりなにより、暑くて乾燥したこの国の風土に生まれ育まれた布地だけあって、着ていて涼しくて、心地良いのです。
ジナボさん、どうもありがとう!


2021年12月8日水曜日

Tシャツにブルキナファソの国布をアレンジして

 先月のこと。
ブルキナファソの国布をプリントしたTシャツが欲しいよね、とワガドゥグに暮らす日本人の友人と話していて、ならばと”Burukindi”に行ってみることになりました。ワガドゥグでTシャツを作って販売する店です。
確かにありました、国布がプリントされたTシャツが。
でも黒色だけだし、第一、サイズが大きすぎます。
友人の帰国を3週間後に控えて、サイズの取り寄せは難しいだろうと判断。さらに、プリントの具合があまりよくありません。洗濯に耐えられるかちょっと怪しい、とも判断して断念しました。
そんなある日、事務所のおしゃれなエンジニアのお兄さんが、こんなポロシャツを着て出勤してきました。



あ、いいじゃーん。
どこで買ったのか、早速質問して、シャツのタグに記載されていたメーカーの電話番号に問い合わせてもらいました。でも、生産は現在されていないとのこと。
日本人のわたしは当然のごとく、諦めました。

ところが。
現地事務所員の3人は、だったら作ればいいんだよー!
かれらは提案しました。
目からうろこ、でした。

まず、白のポロシャツでもTシャツでも、シャツ屋に行って品質の良いものを探す。
そして、色落ちしない染めの良い国布を探して入手する。
そして、この写真と共に、腕の良い仕立て屋にすべてを持ち込でオーダーする。

夫が僕はポロシャツが欲しいとすかさず言ってきました。そして、帰国する友人といつも車の送迎でお世話になる友人とわたしのためにTシャツ3枚が必要です。
彼らの情報を集めて、グランマルシェの裏手にあるシャツ屋問屋みたいなところへ行って、良質のポロシャツ1枚、Tシャツ3枚をそれぞれのサイズで購入できました。サイズもばっちりそろっていたことにびっくりです。
そして、国布も綿100%のもの一反(6ヤード分。一反で買ったほうがお得だということでちょっと多めだったけど)。
それらを持って、秘書のおしゃれなお姉さんの贔屓の紳士服仕立て屋さんにそのまま直行したのでした。

全てのことが午前中の2時間で完了したのでした。
こんなにスムーズに事が運べたのは、3人からの情報を得て秘書のお姉さんが同行してくれたおかげです。
仕立て代は4枚で5000F(約1000円)。
了解!二日後に仕上げておくよ。
ということで、めでたく完成したのでした。




ポロシャツと、Tシャツです。




ここの人たちの生きる知恵、というのか、前向きな生き方、というのか。

「だったら、作ればいい!」

この一言に目が覚めた出来事でした。
皆が喜んで満足してくれたのは言わずもがなのことです。

2021年12月7日火曜日

アフリカンヘアスタイルに挑戦

 先月11月のある日、事務所の秘書の女性が長いエクステでロングヘアにしておしゃれをしてきました。赤毛のエクステがかのじょにとてもよく似合っていました。
いいなあ~、っと言ったら、一度アフリカンヘアにしてみる?、かのじょから提案してくれたのです。
かのじょは、今回は美容院に行って編み込んでもらったけど、かのじょ自身が仕事が終わった後に髪を結いあげてくれると言います。

まずは黒髪のメッシュ(エクステ)2パックがいるわね、ということでかのじょに買ってきてもらいました。
臨んだのは、"fixe de meche"(フィクセ・ド・メッシュ)というスタイルです。





これは韓国プロデュースのトーゴで生産されたメッシュ(フランス語ではエクステとは言わずにmecheというのだそうだ。)で、100%カネカロン・ファイバーとあるけど。カネカロンってはて?
1袋は1400フラン(約280円)。

事務所秘書のお姉さんは、髪がさらさらしてるからやりにくいわあと言いながら喜々として結ってくれました。小さいときから、何かのお祭りだとか儀式のときは家族の女性総出で髪の結い合いっこをして楽しんだそうです。だから、かのじょも編み込みはお手のものなんだな。

わたしは、このメッシュを1袋と2/3袋を使いました。
わたしの髪がアフリカの女性の髪質と違いすぎてやりにくかったのでしょう。途中から、とてもフレンドリーな第2の運転手に手伝ってもらってもかまわない?と聞かれました。男性だからわたしが気にするかと思ったのでしょう、かれの穏やかできめ細かい心配りをする気性をよく知っているわたしは即答でOKしました。

そうやって和気あいあいと5時間もかけて出来上がりました。




出来上がってみての感想は、まず、重い!!!、ということ。
そして、ギューッと頭皮が引っ張られて編み込まれているので頭が締め付けられているようだ、ということでした。
完成した姿を見た夫のひとことは、「顔のしわがないっ!!!」でした。
確かにぐいぐい引っ張られているから,しわもたるみもなくなっている!
メッシュの1と2/3袋分が頭に載っているのだから重い、重い。
引っ張られ感と重量感で頭痛まで起こってきました。
かのじょ曰く、「これで1週間~10日は持つからね。その間は,洗髪はできないからね。」
さらに頭痛がひどくなっていくようでした。
初日は、寝返りも打てず、眠られず。
2日目も眠られず、引っ張られ感でストレスがたまりまくりです!
3日目、這う這うの体で起き上がって、やっぱりもったいないけど、かのじょの苦労には報いてあげられなかったけどダメだ―!、無理だー!、やっぱり自由に身になりたいー!解放されたいー!、という気持ちが渦巻いて、最後のお別れの記念撮影をしたのでした。




アフリカの女性のおしゃれをする苦労、昔の日本人女性が日本髪を保って暮らしていた時代の苦労を痛感しました。
美しさを保つって大変な忍耐の上に成立しているんだなあ~!!!

朝、事務所を訪ねて、もうダメ―!わたしの我慢の限界が来たー!髪を開放してよー!、と懇願。秘書のお姉さんの手すきの時間を待って、髪を解いてもらいました。

髪を解きながら、一本ずつ、辺りの頭皮の突っ張りが解放されて肩の凝りがほぐれていくのさえ感じたのでした。





ああー解放されていく―!、というわたしの解放感に、秘書のおねえさんはくすくす笑っていました。わたしたちは、小さいころからぎゅっと頭皮を引っ張られて結うことに慣れているからね、あなたは初めての体験だからちょっと大変だったわね、といたわりの言葉を投げてくれました。
わたしのアフリカンヘアスタイルの保持限度は、3日間で終了しました。
全ての髪が釈放された時の解放感ったらなかったです!
ああー。やっぱり自然に生きるのがいちばんの幸せだ―!、と痛感しました。

今回わたしが経験した、メッシュを使った、フィクセ・ド・メッシュ(fixe de meche)。
子どもたちがよく結ってもらう、メッシュなしの(色とりどりのプラスティックビーズやタカラガイを髪先に付けたりもしている)、ナット・パナム・モレ(nattes panam-more/モレ語)。
そして、ペリュク(perruque/フランス語でかつら)。
この3つが今のアフリカ女性たちのヘアスタイルなのだと秘書のお姉さんは教えてくれました。

ナット・パナム・モレは、昔昔からある結い方だそうです。
きっと、イエネンガ姫が戦闘に出るときにはこの髪型で戦ったんだろうねとわたしが言うと、ウィ、もちろん!、とお姉さんもうなずきました。
中央アフリカのバンギにいるとき、わたしの子どもたちが通学するフレンチスクールのアフリカ出身の子どもたちはよくこのナット・パナム・モレの髪型をしていましたが、日本の公衆衛生学のドクターが感心するように、この髪型をしている子にはシラミが発生しないと言っていたのを思い出します。洗髪頻度がそんなにないのになぜ?と思ったものでしたが、きっと頭皮の地肌が空気に触れて蒸れないからだろう、とのことでした。

そして、もう一つ思い出すこと。
わたしたちのバンギ時代は、もう30年も前のことですが、あの頃のアフリカ女性は、かつらもメッシュもつけていませんでした。かれらの髪のボリュームを出しておしゃれする方法として、ブラウスや巻きスカートと共布のアフリカンプリントの2ヤード(1m80cm)を使って無造作に頭に巻くことだけでした。
それがまた、とてもかっこよかった!

キンシャサ時代になると、女性たちはプリント布地の巻きスカーフで頭のおしゃれをすることをやめて、かつら装着の女性だらけになっていました。韓国のかつら工場がキンシャサ内に2つ稼働していて、かつらを入手しやすくなったことも挙げられるのでしょうが、わたしには好ましく映りませんでした。ナチュラルがいちばんなのになあ、と見ていたものです。

ということで、貴重なアフリカンヘアスタイル体験でした。

2021年12月6日月曜日

ブルキナファソのインターネットが切断された11月後半

 


この写真は今朝8時過ぎの事務所2階からの眺めです。
乾季に入って2か月。そろそろ町の空気も乾燥して埃っぽくなってきているなと感じますが、朝の空気はまだどうにか澄んでいます。
12月に入って、朝晩の気温が下がってきました。北半球に位置するワガドゥグはこれから、現地の人たちの言う「ワガドゥグの冬」を迎えます。
今朝も夫と一緒に事務所に向かう車の窓から、並行して走るたくさんのバイクに乗る人々の様子を眺めていましたが、ああまたマスクの季節が始まったなあ、と思うのでした。
10人のうち3,4人がマスクをはめているのです。
かれらは、決してコロナ対策のためにマスクをはめているのではありません。
「わたしたちは寒さ対策と埃対策のためにマスクをはめるのだ。」と、ブルキナファソの知人たちは必ずそんな応えを返したものです。
ただ、2年前には彼らのマスクは厚地の布製の黒色を基調としたものでしたが、今朝見たかれらのマスクの中には使い捨てマスクを付けている人も発見しました。
今では、使い捨てマスクをここの薬局でも道端でも売っているのです。
コロナ禍の世界になって、2年近く。
いまだに、ブルキナファソの人たちはコロナの存在を否定する言動をとっていますが(市場では全くマスクの存在のかけらもない)、バイクに乗る人たちのマスク着用を見ていると、(コロナ対策ではなくとも)使い捨てマスクが徐々に彼らの暮らしにも入り込んでいるのだなあと感じるのでした。

さて、そんな中、11月下旬はブルキナファソじゅうのインターネットが切断されて、この国は世界の陸の孤島となってしまったのでした。
というのも。
政府の野党議員が11月27日(土)に政府に対しての抗議デモを国民に呼びかけたことから、政府は突然、何の予告もなく国のインターネットを遮断したのでした。
11月20日(土)から11月28日(日)のことです。
わたしの知る限りでは、北部の国軍の施設がテロに襲われて多数の兵士死者を出したこと、そして、国境北側の国のフランス軍の動きに疑念を抱くブルキナファソ北部の住民との衝突などが抗議デモの背景にあると思われます。テロの脅威から国内には多くの避難民も出てきています。

ネットが突然遮断されて繋がらなくなったとき、わたしたち外国人は友人や家族と連絡が取れない不自由さにストレスがたまりましたが、この国の人たちは、ネットが使えなくなったという事実を普通に受け入れていたように思います。
政府野党から庶民への抗議デモの呼びかけに対し、この国で大統領よりも尊敬されていると言われるワガドゥグの王様(モゴ・ナーバ)がデモの呼びかけに参加しないで家に留まるようにという声明を出したとブルキナファソの知人から聞きました。その知人は、だからデモ予定日の27日は誰も参加しないだろうと言っていました。
それがどこまで真実かはわかりませんが、結局、デモは不発に終わったようです。

11月28日(日)夜8時にインターネット切断は解除されるだろうとテレビニュースで流れたようです。(11月20日(土)に突然ネットが切断された後、11月24日(水)夜にネット切断は4日間、延長されるというニュースも流れたと聞きます。)
そして、ニュースの情報通りに、11月28日夜にネットが繋がりました。
その後も自宅のネット接続が安定しなかったりということもあって、わたしはブログを更新する気力を失ったままでした。

最後の更新から半月が過ぎて、わたしの周りで日々起こるたくさんの興味深いことが山積しています。
少しずつ、綴っていこうと思っています。


しかし、ブルキナファソはおもしろいなあ!
デモを呼びかけるも不発に終わったブルキナファソ。
長い歴史を持つモゴ・ナーバのいる国、数年だけの大統領だったにもかかわらず今も尊敬され続けるサンカラさんの精神が生き続けている国、「高潔な人々の国」という意味の国名を持った国、ブルキナファソ。
かれらのそばにいて経験することを小さなことでも書き残しておきたいと思うのでした。


2021年11月20日土曜日

ブルキナファソの国の布

 



これは、ブルキナファソ国民が国旗と同じくらいに大切にしているという、ブルキナファソの国を象徴する布地です。(以前にも書いていますが)
1983年にトーマス.サンカラが大統領に就任したときに国名をブルキナファソに変え、国旗を変え、そして、この布を国布としたと聞いています。
国の重要な会議があるときに国旗が飾られて、テーブルはこの布地で覆うのだそうです。
そして、大切なパーティが開催されるとき、ブルキナファソの女性たちはこの布地で身を包むのだとも聞きます。


こんな具合に日常の暮らしの中にもこの布地柄が入り込んで使われています。




ワガドゥグで有名なチョコレート屋さん、chef ANDREのカカオ100%の板チョコの包み紙にも。(っと思ったら、カカオ52%と書かれてた!)
ティッシュペーパーの箱にも!

赤、白、黒の3色は、この国を流れるボルタ川の3つの支流を意味するのだとか。
植民地時代に河川が重要な交通手段だったときに、便宜的な名称として、赤ボルタ、白ボルタ、黒ボルタと言われて、区別されていたのだそうです。
そして、白鳩は白い紙~メッセージが書かれた手紙 ~をくちばしにくわえています。
町の布地屋さんで、綿100%のもの、化繊の薄手のものを簡単に入手することができます。
最初の写真の布地は以前に買っておいた化繊のもので、柄に沿って切ってみたら、ちょうど腰巻によいサイズのものになりました。ということで、四方をちくちく祭り縫い。
エルメスのスカーフの仕上がりを思い出しつつ、手縫いでかがっていったら三日もかかってしまった。でも、集中できる時間が持てて幸せでした。
チョコレート屋さんの商品の陳列棚を見て、この布地を買って帰りたいーと言っていた日本のお兄さんにプレゼントしましょ。喜んでもらえるといいけどな。




2021年11月9日火曜日

11月8日の夕陽~我が家4階のアパートから

 


11月も1週間が過ぎました。
日本は日に日に気温が下がり、日没時間も早くなっていることでしょう。
九州で生まれ育ったわたしには、冬至のころの東京では午後4時半にはすっかり陽が沈んで”町全体が夜”だということに馴染めないものがありました。
夕方5時前に陽が沈む、なんて信じられないことでした。(調べると今日の福岡の日没時間は17時20分だそうです。さらに東京の日没時間はというと16時39分!寂しい秋の夕暮れですね。)

ではワガドゥグの日の入りはどうかというと、北緯12度20分と北半球に位置しているので、東京ほどではないにしても冬至に向かって日没時間は少しずつ早くなっています。

上の写真は、昨日11月8日、17:30に我が家のアパート4階からわたしの携帯で撮影したものです。
肉眼では、もう少し太陽が大きく見えるのですが、携帯ではこれが精一杯でした。
頭の中では、赤道上の都市では1年じゅう朝6時日の出、夕方6時に日の入りと考えるところですが、ワガドゥグは北緯12度と少しなので11月ともなれば、日没は夕方5時半過ぎとなるのはわかります。たしか、夏至の頃は、夕方6時半まで明るかったはずです。

雨季が終わってまだ半月ほどなので、空気もそんなによごれていないのか、夕陽もきれいに見えます。
それが、年が明けた頃になると夕陽はぼやっと霞んでみえます。サハラ砂漠からの風、ハルマッタンが吹き始めるともう太陽は薄らぼんやり。光はオレンジ色から鈍い白色に変わります。

そんな常夏のアフリカにもちゃんと季節は巡っています。
ワガドゥグでは、市場や道端で売られる果物を見ると、ああ季節が替わったのだと思い知らされます。
そろそろ、大きくてまん丸いけど縞模様のないスイカが出回り始めました。隣国ベナンからはパイナップルが届き始めました。年が明けて2月、3月になると苺が金盥に山盛りになって売られる季節です。苺というと熱帯フルーツのイメージではないのですが、ワガドゥグ近郊では苺栽培がさかんです。

果物で季節を知るっていいですね。

2021年11月3日水曜日

生さださん、ありがとう!

 完全に乾季に移行したワガドゥグからこんにちは。


雨が降らなくなって、10日くらい経ちます。
それと同時に・・なのかな、電圧の振れ幅が大きく不安定で、毎日停電が起こって、振り回されて少々へこたれ気味です。
部屋のヤモリ、”ゲッコ”(gecko)が、ちょろちょろと部屋のエアコンのあたりをうろついて、びっくり仰天させられますが、あれは害虫を食べてくれる良い虫なのだからと心で言い聞かせて、わが身を励ましてもいます。

最初は、キィキキキィーと聞こえる音は、電圧の激しい上がり下がりで電化製品が悲鳴を上げているのかと思っていたら、訪問客から、あれはゲッコの鳴き声ですよ・・・と。
ひぇー、気持ち悪い!
部屋の壁にゲッコのうんちがぶら下がっていたり。長くすじを引いて滴り落ちていたり。
でも、絶対に死ぬほど恐ろしいG虫より断然マシだ、と思って頑張ります!


さて、そんな気分も落ち込む日々の中で、10月30日放送のNHK生さださん番組の一番最初に、わたしの葉書をさださんが読んでくれる、というお祭り気分家庭内大盛り上がりの出来事がありました。(友人からの第一報がわたしのメイルに届いたのは、こちらの時間でちょうどおやつを食べている時間帯でした。)


(上の写真は、わたしが色鉛筆で手描きした絵葉書&カード2枚です。生さださんに送ったのは、左の家の絵でした。)

ブルキナファソの郵便機能がストップしている中、2週間ほど前に夫の会社の出張者が日本に帰国するというので、父や従兄や叔母たちへの手紙を日本で投函してもらうようにお願いし、その中に生さださん宛の葉書もこっそり忍ばせたのでした。

あまり動き回れないコロナ禍の状況で便箋も絵葉書も入手することが難しいので、手持ちの画用紙を葉書大に切って、色鉛筆で絵を描いて絵葉書にしました。時間がゆっくり流れるアフリカ生活の中で、この作業もまた楽しいものでした。

友人がわたしの葉書が読まれた部分だけを録音してメイルで送ってくれたので、その日のうちに聴くことができました。さださんがわたしの葉書を読んでくれるのを何度も何度も繰り返し聴きました。夫も傍で感動していました。


さださんが、「このかたの知らせてくれるお便りを通してブルキナファソという国が身近に感じられますね」、と言ってくれて嬉しかったなあ。
ブルキナファソから書いたわたしの葉書を読んでくれたのは。今回で4回目だったように思います。

わたしは夫にくっついてワガドゥグに滞在しているだけの一主婦なので国際援助などという大きなことはできませんが、はるか遠い日本の人たちにブルキナファソのことを知ってもらいたいと思うし、ブルキナファソの人たちにもわたしの国、日本のことを少しでも紹介したいなと思っています。

アフリカ生活でくたびれかけていたわたしに、とびっきりの栄養剤を届けてくれた生さださん、いつもありがとうございます!


2021年10月27日水曜日

10月23日、第27回FESPACOワガドゥグ全アフリカ映画祭閉幕

 一昨日の土曜日(10月23日)に1週間の日程で開催されたワガドゥグ全アフリカ映画祭が閉幕しました。




ブルキナファソの有力日刊紙、”Sidwaya”の10月25日の第一面全体に、金のイエネンガ姫賞グランプリの受賞者でソマリア出身の女性監督、Khadar Ahmedさんが、トロフィーを高々と揚げて喜びにあふれた表情をとらえた写真が載りました。
イエネンガの金の愛馬賞(l'Etalon d'or de Yennenga),賞金2000万フランセーファー(約4百万円)、そして、ブルキナファソの伝統のとんがり帽子”サポネ”が、セネガル大統領とブルキナファソ大統領から授与された瞬間です。藍色の伝統衣装に身に包んだ男性がMacky Sall セネガル大統領、白い衣装の男性がKabore大統領です。


新聞第二面には、グランプリ受賞作品映画の紹介記事も見つけました。
”La Femme Du Fossoyeur"(The Gravedigger's wife/墓掘り人の妻)。
ちょっとドキッとする題です。
そして、数ページを割いて、各賞の受賞者の名前、出身国、映画題名、賞金まで掲載されていました。閉会式翌週月曜日の新聞記事はFESPACO一色だったと言えるでしょう。

わたしたちは夫婦で、16時から閉会式と各賞発表と授与式があるというので、ブルキナファソの国営放送のチャンネルに合わせて待機していましたが、実際に始まったのは、17時近くになってからでした。
会場は、ワガ2000のタワーの近くに建つ大きな国立スポーツセンターでした。

閉会式は、オートボルタ(当時の国名)第5代大統領であり、在任期間わずか4年の中で多くの改革を実行したトーマス・サンカラの大きな写真が舞台いっぱいに掲げられて、かれへのオマージュのダンスで始まりました。
暗殺された彼の命日が今月の10月15日。ちょうど1年前にドキュメンタリー映画「人間トーマス・サンカラ」(リシャール・ティエネ監督)がブルキナファソで上映され、今回のFESPACOでも披露されたということです。今年で34年経った今も国民に尊敬され続けているトーマス・サンカラ(1949~1987。在任1983.8.3.~1987.10.15.)。かれが作詞した国歌「ある一夜」がラップ風に編曲されて歌われました。
余談ですが、サンカラが暗殺されて34年経った今年10月11日にサンカラ暗殺裁判が正式に開始され、10月25日に延期されていた審理が再開されるという中でのFESPACO祭だったということも聞きました。さらに、FESPACO自体の中にサンカラ精神が息づいているともわたしは感じ取ったのでした。
続いて、たくさんの女性の写真が舞台スクリーン上に現れて(その中に2014年のノーベル平和賞を受けたパキスタンのマララ・ユスフザイさんの写真も紹介されたような・・)、男性ダンサーの片方の肩に馬乗りになった女性ダンサーたちが厳かに踊る場面に移っていきました。わたしの乏しい語学力では、どうして女性オマージュのような舞台企画になったかはよく理解できませんでしたが、とても良い舞台構成だと魅入ってしまいました。
第27回FESPACOのテーマ、「アフリカの映画、民族離散の、新しい才能の、新しい挑戦の映画」ということと関係があるのでしょうか。

そのあと、舞台は暗転。
スポットライトの中に、金の愛馬にまたがって雄々しく戦うイエネンガ姫グランプリトロフィーを掲げ持って、一歩一歩進むイエネンガ姫に扮した若い女性が浮かび上がりました。





毎年変わらない構成だということですが、きっとこんな衣装に身を包んで果敢に戦ったであろう、わたしの想像にピッタリマッチしたイエネンガ姫でした。髪飾りからシャツ、ズボンに至るまで、狩人の身を護るとされるタカラガイで飾られた衣装。
こんなにもブルキナファソの人々に愛され続け、ブルキナファソ建国の母と慕われるイエネンガ姫への、ブルキナファソ国民の尊敬の念を感じました。

そして、その後に各賞の発表がそれぞれのプレゼンテイターとともに始まったのでした。

ブルキナファソがFESPACOのイベントをいかに大切にしているか~資源の乏しい内陸国にありながら、トマス・サンカラが「ブルキナ・ファソ」=“高潔な人の国”という国名に改め(以前は”オート・ボルタ”、単なるボルタ川の上流、という位置を示すだけの名前だった)彼の精神が生き続ける国、そして、この国の文化をPRする好機会にしようとする姿勢を、わたしは初めて間近で見たFESPACO祭で感じました。

FESPACOの映画館でもらってきたパンフレットたちです。



FESPACO会期中の上映プログラムと、映画祭の案内書は無料でもらえました。
どれも、きれいに印刷されて、上映場所、日時など分かりやすいスケジュール表になっていました。

ありがとう、FESPACO。ブラボー、FESPACO。
わたしは、FESPACOはすばらしいアフリカ版カンヌ映画祭だ!、と感動しました。
次回のFESPACO開催の時は、わたしたちはもう帰国していますが、このワガドゥグ全アフリカ映画祭が末永く盛況でありますように。

それから・・、協賛国の中に、日本の名が連なってほしいなとも思いました。